陶詩の技巧

 最近になって陶淵明の詩の暗記がすっかり習慣として定着した趣がある。すでに彼の四言古詩はほぼ習い終えた。暗記というのは実際に用いるためにやるのだから、それを実際に使わなければ自然に内容を忘れてしまう。覚え続けるためには、ひたすらに実践で続けるしかない。ではどう用いるのかと言うと、他でもなく漢詩そのものを吟味するために用いるのだ。

 陶淵明は、スケールの大きな冒頭から目の前の狭い現実へ収束していく結末までを実に手際よく歌っている。
 このような収束する感覚というのは詩においてもっとも重視されるものだ。外界について色々と歌った後で、自分の主張が必ず最後に来る。陶の場合、そこまで持っていく始めと終わりとで展開の導き方が著しい対称をなしており、何十句も続いているのに中だるみがない。あまりに仰々しいくらいがよいのだ。
 特に『命子』は実に素晴らしい。「悠悠上古…」と始まって夏・殷の神話時代、秦から漢の祖先の輝かしい業績を述べ、最後は自分の息子に対する期待と不安を告白することで終わっている。
 時運も、雄大な自然の描写から始まり、次第にそこからかつての光景に対する懐古(延目中流…)、そして濁酒や琴が並ぶ目の前の光景に、自分自身の無力さを想うのである(慨獨在余)。
 この句で結ばれるのは実に心にくいが、その前に「黄唐無逮」という神話的描写が不自然に挿入されているのがどうしても気にかかる。振り返るという意味ではこれも必要な演出だが、合わせ鏡のようになっていない点で瑕瑾なのである。
 形影神も冒頭の四句が実に見事といえる。
天地長不没
山川無改時
草木得常理
霜露榮悴之…
 と、大から小への移り替わりを描いて見せたうえで、人はもっとも賢い生霊というが、そういう存在ではないと断言してくれる。それから酒なり、仙界への憧憬なりで動揺する人間の卑小さを時にユーモラスに、時に諭すような口調で語る。

 ここで対比したくなるのは、白居易の詩の続古詩其二だ。これも冒頭は自然の雄大さに始まり、同様に自分自身の不安の告白に終わる。
 ただこの詩の構造は最初から最後までどこか均質で、大から小へのダイナミックさに欠けている。彼の旅愁をかき立てるのは山であり、墓であり、春草だ。彼が駆け抜ける山道は、この際人間的なるものと著しい対称を成すものとしては意識されてはいない。自然はここでは人間の心情に寄り添うものだ。というより自然の中に人間の精神性が包含されている。鳴く鳥も、風を受けて揺れる果実も、人間とは全く違うけれども、しかし人間の心情を代弁するものとして描かれている。『訪陶公旧宅』において白は陶の人となりを慕ったが、作風としてはむしろ違いの方が目立つ。
 良くも悪くも、世界と人間が等身大の扱いを受けている。彼のまた別の時期の作品である『紫陽花』は、それこそ彼が仏寺で初めて見つけた、自分以外は存在さえ知らなかった花(今で言う所のこれがアジサイなのかどうか判然としない)との対話だ。このような小さいでより鮮明に表れている。それより少し前は、まだ自然と人間の間に隔たりがあった。まだそれはそれ自身の美のために鑑賞する対象ではないのだ。自分の思いや願いを告げるための引鉄以上のものではないのだ。この傾向は、古い歌であればあるほど顕著になっていく。「歓楽極りて哀情多し…」が胸を打つ漢の武帝『秋風辞』や曹植が洛陽の荒廃を嘆いた『送応氏其二』も、景色を詠むことについては後代に劣らないが実際の心情とはどこか隔たりがある。
 無論自然や暮らしの光景を自分自身に重ね合わせる考え方がないわけではないが、それが根を結ぶにはあと数百年を待たなければならない。