サガミ・アロマ

2352-2420
相良 芳香

 フクイ国のアキタ属州オリコシナイにて生まれる。父親から古代の歴史や地理に関しての教育を受けた。この時期、フクイはまだアキタ内陸を支配しておらず、アロマの父はしばしば内陸の探検に出かけていた。アロマも彼と旅を共にし、アキタやアオモリの各地を巡った。このことは彼女に世界を見る上で、非常に多角的な視点を提供した。
 2370年代以降、フクイはオシマ半島から出撃して本格的にホカイドの征服を進めた。入植のために多くのフクイ人がホカイドに渡った。アロマも父からのいいつけで、その友人ナカタ・セイが征服し、所領として統治していたオシャマンベに住んだ。アロマはホカイドの支配をするためにはその地理を徹底的に調べ尽くす必要があると考えていた。
 セイは彼女の思想に非常に理解があり、アロマの学術研究に融資することに協力を惜しまなかった。彼女は夫と生活する間、ルモイからオビヒロまでの地を踏破した。
 しかし2394年ニノミヤ・ミツハルとニノミヤ・ヨーヤとの間で起きた後継者戦争に参加したセイが戦死し、その所領を彼女一人で統治せねばならなくなると、研究にあてる余暇はなくなってしまった。
 だがホカイドで事業を行っていたイスモ人オキ・ザンク(2354-2412)は彼女の評判を聞き、何とかその活動を手助けしたいと考えた。その考えに賛同し、アロマは2400年ザンクの妻となり、製造会社の秘書を務めた。その間に三人の子を産んだ。この頃、フクイに貨幣経済が浸透し、フクイ宮廷でも貿易を積極的に行って利益を増やそうという思想が主流になって行った。それで彼女はしばしば本国から財政に関する相談のため呼ばれたが、断った。そのため彼女は終生フクイの地を踏むことはなかった。彼女は自らをフクイ人としてよりはトーホク人とみなしたからである。またセイが政争で亡くなったことは国家への不信を強めた。
 2406年、エリモ人がフクイ人の所領に攻め込んできたのでアロマは彼女自身兵士たちを手助けした。その間、フクイ人とホカイド人の子弟を育成するまでになっていた。
 フクイの支配にエリモ人が屈服すると、この地方にも現地の地質調査に赴いた。古代の資料と照らし合わせて当時からの変化を調べた。ホカイドを題材にした地誌をこの頃三冊ほど執筆したが、カミカワ地方誌(2416年頃に成立)を除いて佚文でしか残らない。
 2412年ザンクが亡くなると、彼女は次第に戦乱が近づくのを感じ、遺産を売り払ってトーホクに帰還することを考えた。だが長いこの地での生活でホカイド人の中にも彼女の人柄を敬愛する者が多く、その説得もあって結局ホカイドにとどまった。
 2416年二月、サルフツ村で農夫が自殺したという事件がホカイド人のフクイ人への敵意に火をつけ、全島で征服者への反撃が始まる。オシャマンベも略奪の手にさらされるようになった。セイとの間に生まれた息子の二人はサッポロ人との戦いで戦死してしまった。同年末アロマは捕虜となった。彼女は身代金を払って子弟たちの自由を解放することができた。引き続きオシャマンベへの居住を許されたが、牧場や田園の一部は王侯に接収されてしまった。
 それでもサッポロ君侯ヤマナカ・チューヤは彼女が優れた能力の持主であることを見抜き、宮廷の地理院長と王族の教育係に任じた。
 フクイ王はホカイドに残存していたフクイ人を見捨てたため、老齢であることもありもはたトーホクへ戻ることはかなわなかった。フクイ人は次第に政治的な単位としてが消失し、吸収されていった。アロマは2420年七月に病死した。