ユーヌス・イブン・ハルドゥーン

Yunus ibn Khaldun, 2093-2146

 2040年代から始まった超常現象の数々をまとめて呼ぶ『大災厄』は半世紀で世界の秩序を壊滅させた。21世紀初頭の文明水準が数百年単位では戻らないほど、被害は甚大。
 21世紀末期には、その被害を食い止めるため、数年ではあるが全人類を単一の政府の元に統治する決定が大国同士の会議でされたこともある。しかしそれも名目的な物に過ぎず、第三次世界大戦が勃発。
 第三次世界大戦はそれまでの小説や映画で取り上げられたような悲惨なものではなかった。そもそも、この戦争に関してはいつ終わったのか、どれほど続いたのか全く分からない。それを記録できるほどの気力も、科学力も人類には残されていなかったのだから。
 数百年間も保管され続けた文書資料は極めて少ない。

 2055年以来フランスは厳重な鎖国と海禁を敷き、住民の移動を制限した。また大災厄中の超常現象や、人的被害についてのデータを緻密に収集することで、被害を最大限に
 他の旧EU諸国が大災厄により秩序を失い、自然消滅していく中で、フランスは奇跡的に22世紀に入っても国家機能を保ち続けた。

 その頃パリ近郊はマグリブ(北アフリカ)、サブサハラからの流民にルーツを持つ貧困層が多数居住していた。
 ムスリム人口は急速に増大していた。キリスト教がすでに信仰対象としては力を失っていた中で、イスラームは人々の不安に答え、日常生活に身近なことも相まって都市部に急速に広まっていた。
 しかし宗教やその他保守的な思想に過剰なまでに反抗する『理性の光』という団体がテロを繰り広げていた。そのため宗教戦争のさまを呈していた。

 ハルドゥーンの家庭環境については謎が多いが、アフリカ黒人の血を引いていたらしい。世俗主義者の記述になるが、親が麻薬の売人だったというような醜聞もある。彼は困窮した環境を脱するために軍隊に食い扶持を求めた。その時はまだ宗教的な情熱を公にはしていなかったようだ。
 もはやフランスの厳重な管理体制にもほこりが見え始めていた。農業が推奨される中で金融や不動産などの商売は著しく制限され、北部に比べ南部の文明水準は大きく衰えていた。金属や燃料などの資源を国内だけで賄うことにも限界がき始めていた。
 社会が硬直化し、受け入れられた果てに身分制度めいたものは形成され始めていたのだ。ハルドゥーンのような人物が地位の向上を目指すには混乱に乗じて己の存在を必要とさせるほかなかった。
 21世紀末からスペインではキリスト教を狂信する武装組織『騎士団』が力を伸ばし、北部の広い地域を支配していた。彼らは再再征服(Rereconquista)の名の元にイベリア半島のムスリムを殺戮して2120年、フランスへと侵入した。南仏の都市が略奪の対象となった。
 ハルドゥーンは指揮官として戦った。この功績によって将官にまで上り詰め、2127年には退役して政界へ進出した。熱狂的な人気に乗じ、四年後には大統領となった。
 イスラームによる統治を求める市民の期待に応え、イスラームの宗教儀礼の外での実践を許可する等宗教色の濃い政策を打出した。彼は軍隊に根強い支持者を持っており、また軍の同期や親族にもポストを割り当てていた。
 当時文明の循環という話がはやっており、現代は昔へとどんどん逆行していく時代である、という理論がしきりに論じられていた。ハルドゥーンはその理論を巧みに解釈して、一連の行動を正当化した。
 すでにイスラームに乗っ取った社会制度の構築が求められていた。かつて数百年前に求められていた『理性』による統治はもはやなく、『熱情』が人々の求めるものだった。
 2134年三月五日、彼はカリフ(預言者代理)を名乗った。共和制に対する反逆とならないために大統領を辞任し、その政治体制の外側から国を動かすことに決めたのだ。彼は軍隊の指導権を握り、また一部の熱狂的な支持層の黙認の元に、ノートルダム大聖堂をノートルプロフェット(Notreprophète)に改称してモスクに変えた。こうした一連の措置に対して、一部のキリスト教徒や世俗主義者からの批判はあったがハルドゥーンは疲弊しきった国家に活力を与えるために自らの決定を強行した。民主主義や国是に矛盾するものとは決して考えないままに。
 対外政策にも余念がない。
 マフディー(救世主)を名乗って神秘主義教団を組織し、イングランド一帯を支配していたモハメド・ジョイスに『ブリテンのアミール』という称号を送り、その支配を公認した他、ドイツの都市から使節を呼び寄せて臣従を誓わせるなどした。ハルドゥーンは古代アッバース朝の繁栄を祖国に呼び寄せようとした。彼にとってイスラームはフランスの歴史にそのまま接続し、決して相反するものではないと考えていた。その性格は理想主義的であり浪漫家でもあった。
 また大災厄を生残り、かろうじて残っていたアラビア語の資料を収集し、全てフランス語に訳する事業を興した。これらはみな後世ヨーロッパのイスラーム化に多大な影響を及ぼさないではいられなかった。

 彼はマッカ巡礼を志していたが、急速な改革は国内の混乱を招かずにはいなかった。カリフ位は最初から根強い反対を受けたし、移民と土着民の間の宗教や血統をめぐる対立もしばしば流血沙汰に発展した。ハルドゥーンはそこで自分の所業が正しいことを示すため、側近イスマーイールに命じてヨーロッパから西アジアへの旅に出した。
 イスマーイールはすでに世界の文明水準が著しく低下しており、もはや科学技術や宗教知識の保存すらおほつかない地域が多いことを知った。
 また国外にはほとんどフランスでの政情を知る者はなく、またハルドゥーンの政策も時代に逆行するものとして鼻で笑う人間が多数だった。イスマーイールは目的を果たすことができないまま、失意の内に帰国した。しかし彼が書き記した旅行記や回想録はほとんどのことが分からない22世紀の歴史を知るにあたって貴重な資料である。

 2140年から、自分の長男アフマドが反乱を企てているという噂が流れていた。これに怒ったハルドゥーンはアフマドを自殺させた。しかしそれが冤罪だったと分かると、ひどく悔いた。それは宰相の陰謀であるということが分かると、宰相を終身刑に処した。
 それからは次第に人前に出なくなって瞑想や祈祷に没頭するようになり、次男ムハンマドに国を継がせ、2146年九月十九日に亡くなった。死因は癌だたとされる。
 ムハンマドはノートルプロフェットの近くに巨大な廟を立てて遺体をまつった。

 ムハンマドはほとんど形骸化していた選挙制度を廃止し、議員の世襲を制度化して議会を自らの協賛機関へと変え、また無神論を禁止するなどして本格的にイスラーム国家の創造へと踏み出したのだった。