サカキ・マコト

榊誠、?-2396

 ニーガタ地方ナガオカの出身。
 元はキューシュー人の商人によって奴隷として売られ、その後クズリュー川流域の総督イシイ・ヤレル(2333没)の小姓として雇われた。2331年にはヤレルの紹介によってフクイ王の護衛に抜擢され、国内の治安を守る役職に就いた。その頃は裏方に徹しており、何か派手な活躍があるわけではない。2348年にはタカシマ地方に巣くう女盗賊サカキ・マイナ(ニーガタ出身者で同姓だが、血縁関係は不明)を討ち、追放している。このことがきっかけで彼は軍隊を率いる指揮官に昇進した、ということが記されている程度。

 ニーガタにフクイが直接軍事的に手を出したことは、第十二代ソーリ・メチャツォ(治2412-2416)による遠征の他にはないが、沿岸地域に拠点を築き。そこから現地の部族を通じて奴隷狩りを行っていた。フクイは都市同盟と人身売買によってしばしば利益を得ており、マコトはそういう悲惨な境遇から例外的に出世した一人であり、数少ない非フクイ人の将軍でもある。

 2350年オーサカがフクイ領に侵攻して、首都ツルガを占領すると、サカキはカネキを馬車の中に載せ、護りながらイシカワ地方へ降って行った。イシカワ人の中にはオーサカの到来を歓迎する者も少なくなく、協力のため説き伏せなければならなかった。
 マコトはある程度の兵士を招集することに成功すると、無能な将官を囮として次々とオーサカ軍に戦わせ、戦死させた。こうしてオーサカ軍が勢いづくと、サカキは敵の伸びきった補給路を絶つためにわずかな手勢を率い、オーサカ首都近郊にまで進んで略奪を働いた。
 これに驚いたオーサカ軍はすぐ首都に向かって撤退し、シスカバにたどり着く頃には疲弊しきってしまった。そこにサカキ率いる大軍が現れ、一気に敵を倒した。オーサカ王ヤマオカ・グンタは殺されそうになり、ほうほうの体で首都へ逃げ帰った。

 戦後、フクイはオーサカ人が再び侵攻してこないために国土の拡充につとめ、それまではイシカワ地方を完全に併合することに決めた。現地住民を本土に強制的に移住させ、フクイ人や捕虜を植え付けることで反乱の種を摘取った。山中、森奥に至るまで人間という人間が殺され、古代兵器の毒ガスすら使用された。
 こうしてマコトは約20年間にわたってイシカワ人を征伐し、トヤマとの国境に軍事都市テツカベを築いた。その後百年以上発展をつづけ、フクイ国の第二の都市となる街である。

 その頃ホカイドは物騒とした状況。
 フクイがアキタ(トーホク)を越えてホカイド島にまで攻め寄せたのは2346年、ハコダテを占領した時のことであるが、前述したようにオーサカの侵略があったために数年間、オシマ半島内部にとどまって更なる北上はかなわなかった。だがイシカワ人の討伐が一段落終わると、アキタ人も動員してホカイドへの入植を始めた。この時代、
 ホカイドには数十の国があったが、その中の一つ、ルモイの王サワダ・シンラが2370年弟イバンのクーデターによって追放された。イバンはホカイド諸国に檄を飛ばし、サハリンにも援軍を乞う使者を送ってフクイを迎撃つ準備を整えていた。
 事態を重く見たカネキはサカキにホカイドを鎮圧するように命じた。この時すでに彼はフクイにとってなくてはならない存在だった。
 2371年のハコダテ領主に歓迎を受け、一週間ほど同地にとどまっていた。サッポロに身を寄せていたシンラを慰問するなど、人身掌握にもつとめる。
 その後海路でシャコタン半島に移り、七月二十日に陣営を整えて敵地に攻入る用意。途中トカチ人に襲撃されるなどして数十名の死傷者を出したが、
 八月十四日、ルモイ王国の首都を陥落させ、数カ月間とどまってから帰還。こうしてシンラはルモイ王に返り咲き、フクイはルモイを衛星国にすることでホカイドの西岸を確保することに成功した。

 2394年にカネキが死に、ミツハルとヤチヨの間でフクイ国が二分された際は、ヤチヨ側につくよう説得されたが、「オーサカに二度と侵入させない」と言って側につき、ミツハル側について戦った。2394年八月、シガ北部の両軍が対峙した時、ヤチヨはオーサカからの援軍も率いていたが、マコトがついているのを見ると、敵兵は士気を失って逆にヤチヨへと矛を向けだした。ヤチヨはオーサカへと落ちのびるが道中首を吊って自殺した。
 すでにこの時マコトは九十歳以上の高齢であり、ミツハルが晴れて即位すると、軍役を引退するように言いつけられるが、「私はこんな風に馬も乗れるし矢も射れる。引退する理由がない」と抗った。
 彼は毎日鍛練にいそしんで、年齢不相応に筋骨隆々としており、死相があるようにはその時まで見えなかったが、ある日、王族に武芸を教えるため、王宮へと行く道で亡くなった。ミツハルはその死を深く悲しみ、自分の陵墓の隣にマコトの墓を建てた。