シシド・リョーマ

宍戸亮馬、2320-2406

 フクオカ市の軍人、政治家。若い頃コトウラ市で義勇軍として加わり、勲章を授与された。帰国すると、彼はフクオカ市では名士として知られるようになり、いずれ都市を指揮するものとして見こまれていた。

 2345年、シコク戦争が始まると、彼はフクオカ軍を指揮するためにシコクへ上陸した。ヒロシマの内通者を通じて戦場でうまく立ち回った。負傷して一時帰国したが、そこで民会で初めて演説し、政界での立場を強化することにつとめた。
 シコクでの戦闘が泥沼化すると、2352年民会の決議でフクオカ市の独裁官として任命された。彼はオーイタを屈服させるのはルタオ諸国に対する防壁をなくすことだと考えていた。そのためにどれだけ大きな戦果を挙げてもオーイタをシコクから撤退させる以上のことは必要ではないと考えていた。
 最終的にフクオカ市民会の決議で高名があった傭兵、ツツミ・サイトを招聘することにした。

 ツツミ・サイトは長い間モンゴルからシベリアに至る局地で十年ほど戦っていたが、フクオカ市の説得もあり、キューシューに帰還することになった。
 しかしサイトはフクオカ市に入国した途端、考えを改めて急にオーイタに向かい、オーイタ側について戦った。そしてイマバリ市を落とした。サイト自身はさほどこの戦争の帰趨に影響しなかったが、裏切りは都市同盟全体に精神的打撃を与えた。リョーマは敗戦の責任をとり、総督の地位を辞任した。市民は彼の活躍を称えて様々な贈り物をしたが、それも全て断った。

 2361年サイトが死ぬと、リョーマはその死を悼む記事を新聞に載せた。これがきっかけで五年間公職追放に処された。その後サイトは長らく、平和な時代の中で無聊をかこっていた。その間に、孫も生まれ、家庭的には充実していた。

 キューシュー戦争が始まった時、シコク戦争時代の指揮官や将軍はほとんどこの世を去っていた。数少ない生き残りであるリョーマはそのため久々に非常時の将軍に起用され、南からの侵略に対する防衛を命じられた。
 2399年四月二日、ナガサキ市ナガサキ同胞団が設立された。
 リョーマはナガサキ市からの亡命者で築いた同胞団を信頼して、ナガサキ市相手の戦いを有利に進めた。2403年にはサセボ市との国境でナガサキ・サセボ連合軍を打破っている。リョーマの目的は他都市を圧倒的に屈服させることではなく、勝利を重ねることでぎりぎり和平に持ちこむことにあった。だが長らく他都市に積み重ねていた恨みや憎しみは、リョーマに更なる戦争を求めた。ナガサキ同胞団の中で内訌が起こり、ヨネサワ一族の打倒による目指す過激派が台頭した。

 ナガサキ同胞団が次第に保守派とつるみ、市内の和平派を弾圧するための暴力装置と化していくと、リョーマはむしろフクオカ市の名誉を傷つけるのではないかと言う不安のもとに反対するようになった。このことが市民の不満を買い、支持率は漸次低下していった。
 またこの頃コトウラ市が母市ナガサキ市を支援して暗躍していた。直接軍事的な支援を行うことはなかったが、テロや暴動の扇動などで密かにキューシュー各地に混乱の根をまいていた。コトウラ総督クニイ・センジンはキューシュー全土を陰から動かそうとしており、そのためにフクオカ市が計画に抗うのを恐れた。そこでリョーマを暗殺し、恐慌に陥れることで注意をそらそうとした。
 果たして2406年、ルタオ人に対するフクオカ戦争の戦勝記念日集会で、リョーマは演説の途中突然分け入った暴漢によって殺害された。これによって国内はいくつもの派閥に分かれて殺し合い、以降フクオカ市の敗色は濃厚となっていく。