テラウチ・ガイ

寺内凱、2398-2462

 新オーサカを建国したカントー人。一応はヨコハマの中でも知られた郷紳の出身だが、オーサカ征服以前の来歴はほとんど知られない。

 ヨコハマ国の建国者たちは元々ボーソー半島北部に住んでいたが、環境の変化による飢饉などから土地を離れねばならず、トーキョー地方――ビルだけが無数にそびえたつ沙漠と化していたを越えて――ヨコハマに定着したという。オーサカ人アダムズの乱などもあって一時的に停滞した。
 彼らのニシデラ・デキオ(2442没)は法によって統治することを宣言し、ヨコハマ一帯に秩序をもたらした。その後ヨコハマ国が2465年にヌマズを占領すると、2468年にオーサカ軍は、カントー地方に侵攻してヨコハマ国の首都に押寄せた。
 これによってヌマズを譲らざるを得ず、他にも国内に駐在させねばならないなど多くの不利益を被った。それはヨコハマにとって非常に屈辱的であり、彼らはオーサカに対する復讐を常に志していたのだ。

 いつ頃になるか不明だがヨコハマは古代の兵器に関する資料を収集しており、当時の技術で復興させる計画を立てていた。それはヨコハマ自体では不可能であり、恐らくすでに百年以上前に滅びていたアキタからの技術者を雇った説がひそかにささやかれている。
 そして2538年にミタラシ・カイエを先頭にしてヨコハマ軍はオーサカへと長躯侵攻を開始。この時、テラウチはカイエに続く第二軍として後についていった。

 イビ河以東までは大した抵抗もなく進んだ。というのは、当時オーサカはヒロシマ人に対する防備に忙しく、東の作業をほぼ手薄にしていたからである。アイチ地方が高い税収によって荒れており、オーサカから独立しようとする機運に満ちていたことも作用した。
 ガイがナガノから数千人の投降者を引連れると、ミタラシが「蛮族を加えるとは、何事か!」と叱咤し、持ち場を離れようとする事件も起きた。このようにオーサカを滅ぼす以前から彼らの間には亀裂が走っていた。
 実際ブッチギが騒ぎもあって、ガイはヨコハマから連れてきた兵力を信用できなくなっていった。彼はナガノやオーサカ出身の人間ばかり起用するようになり、この点でも他の指揮官から白眼視されていた。

 オーサカ滅亡後は、さらに西に進んでヒョーゴ地方まで進み、そのままそこに居座った。彼はブッチギやカイエに対して不信感をつのらせたのである。
 2544年ニシデラ・テルが急死した。カイエは生後まもない娘ムイノを即位させた。これは本国との会議をほとんど決めずに行われたことであり、本土ではこの時点で統一された国体としてのカントーは消滅している。ガイは激しく反対し、近縁の男子マサを即位させるよう提言したが、逆に同年にはブッチギがフクイを征服し、現地に居座った。
 ガイはいずれブッチギと戦争を起こすことを危惧し。いよいよカントー王室への忠誠を失って行った。
 2546年、ミタラシ・カイエは母親のアムロ夫人ともどもムイノを殺害して自分が王であることを称した。これを知ると『君側の姦を除く』名目の元にカイエを追放した。それからは部下スガヤ・タケル(2408-2462)にヒメジ周辺の統治を任せ、オーサカ王を名乗った。
 カイエはブッチギの元に逃げ込む途中で客死するが、その甥エンジはナゴヤへ逃げのび、数年の雌伏の後にシガ地方へ攻め込んで東部半分を手に入れることに成功した。ガイは彼の攻撃を食止めるためにシスカバに城壁を築かなければならなかった。こうしてカンサイ地方はツルガ新オーサカ、シガの三国に分割された。
 2459年、ガイはブッチギを失い未だ情勢が安定しないツルガに同盟を持ちかけた。ツルガは内情を偵察されることを拒み、兵力の供出に関しては受付けなかった。
 ガイは共通の敵コトウラ市が滅ぶことでツルガの矛先がこちらに向くのを恐れたのである。

 ガイは倹約家であり、決して不正を許さなかった。オーサカ攻略後に戦利品を横領した兵士がいた時は死罪をもって罰した。オーサカ人の中でも彼を慕うものがいた。またオーサカ王の妹を妃に迎え、自分の血筋にヤマオカ家を接続することで統治の正当性を主張した。
 2462年五月三日、閲兵式から数日後に亡くなった。