ナガサキ同胞団

 ナガサキ同胞団は、主にフクオカに亡命したナガサキ市民が構成し、キューシュー戦争において活躍した武装組織である。

 トーヤマ・シゲル(2372年生)はヨネサワの暴政を止めるために、祖国からの亡命者とともに民主政治を回復しようとした。2399年四月二日、ナガサキ同胞団の結成を宣言した。この時点では純粋に都市の革命を目指しており、フクオカ市民の支持者も多かった。キューシュー戦争ではヨネサワ一族に友好的なサセボ市やアマクサ国を相手取って戦った。
 ナガサキ人がフクオカの指揮下で戦うことについてはシゲルは情熱的な人物ではあったが、人の話を聞かない所があり、その危うい性格を危惧する者は内外に多かった。
 サワノ・イムレ(2374年生)はシゲルの同僚であり、ヨネサワ・カズハルによるイサハヤ市の破壊を目撃した人物でもあった。彼もまたナガサキの革命は戦争でしか成功しないと考えていたが、シゲルに比べるとより穏健派であり、シゲルのひたすら闘争を選ぶ道を好まなかった。
 2403年のフクオカ総督シシド・リョーマが暗殺されると、戦時の緊急措置によって彼の副官ナナオ・レイマ(2359年生)が総督に任じられた。彼はフクオカ市の政治が外国人に左右されることを好まず、同胞団をひそかに排除することをもくろみ始めた。しかし、同胞団の味方が強く、背後からコトウラ市が監視の目を光らせていることもあって、なかなかそれを実行には移せなかった。
 戦争がフクオカ市に有利になると、シゲルは増えてきたナガサキ市からの亡命者から国情について知る機会を得た。
 ナガサキは盤石であり、またルタオ人の支持もあってその体制は想像以上に安定している、ということが明るみになった。だが同時に、それは他国の力を借りなければ存続しえないような、危うい安定だった。

 ナガサキ市がもはや国として立ちゆかないことを知るとシゲルは絶望し、祖国を回復する道をあきらめ始めた。同胞団の団員たちにも、いまだ戦争が泥沼から脱け出せない中で自分たちがまるでフクオカ市の手先になっているのではないかという意見をめぐって二つの派閥に別れ、あい争った。この際シゲルはフクオカ側につき、戦い続けることを主張した。これに対してサワノはナガサキに帰って和平を提案すべきであると発言した。この緊張がナガサキ人の間に不和をもたらす。
 ナガサキ市の革命をあきらめるのであればもはや同胞団に存在する意義はなく、シゲルはそう言った懸念を拒否するために執拗にフクオカにすり寄らなければならなかった。2407年一月の真夜中に、シゲルは自分の宿舎の壁に穴をあけ、これを反対派による破壊工作であると喧伝した。そのためサワノはフクオカにいられなくなり、シモノセキに亡命した。
 シゲルが勝利すると、同胞団内部で総括の嵐が吹荒れた。少しでもサワノの支持を疑われた人間はリンチされ、街路樹にかけられた。
 民衆は反乱分子を探す彼らの姿を見ると逃散るほどになった。そのため次第に民会でも同胞団に対する敵意が高まった。
 ナガサキ市に対するフクオカ市民の興味も薄れたが、戦争がなかなか終結しないという苛立ちも治安の悪化を助長。レイマはしかし、同胞団が自壊するには時期尚早だとしてまだ手を下さなかった。

 シゲルはナガサキ市に帰還する代わりに、フクオカ国内にナガサキ人による共同体を築くことも検討していたようである。史料は基本同胞団を憎む側の記述しか残されていないため、どうしてもシゲルには独裁者の雰囲気がつきまとう。
 2412年にはカズハルの息子じきじきから講和を求める使者が来た。だがシゲルはそれを罠だと考えて拒否した。これによってシゲルの支持者の中には同胞団がもはやシゲルの私物となっているとして反発し、脱走する者が増始めた。
 2407年ヒロシマ人の族長ミヤタ・ルカ(2352-2419)が突如キューシューに侵入し、ナガサキの周辺まで荒らしまわった。だがルカはナガサキ市を攻撃することなく、クマモト国北部を略奪したのを最後に2414年、ヒロシマ地方へ撤退していく。レイマはこれを、同胞団とヒロシマ人が密通している証だとして、同胞団を排除する絶好の口実とした。そこで2415年、軍法会議という名目のもとに市庁舎の一室へと団員を呼び寄せた。

 こうして五月十八日、同胞団の団員が会場に入ると、レイマの合図によって武装した兵士が背後から突入し、殺戮。シゲルもこの中で命を落とした。レイマはナガサキ同胞団の記録を抹消し、その組織を解体して末端にいた人間を全てフクオカ軍に組込んだ。この後、同胞団がコトウラと通じていたような内容の書簡が次々と発見され、同胞団が成立からして黒であったことが世間に明るみとなる。
 レイマが同胞団を早めに滅ぼさなかったことは市民の批判を買った。彼は優柔不断な人物であると名士たちは断じたし、この頃になるとナガサキ市というよりはナガサキ市というよりはサセボ市派の都市とフクオカ派の都市の対立となっていたから到底民主政治の回復などと言うお題目を唱えている場合ではなかったのだ、という空気が漂っていた。
 2416年にアマクサがナガサキ市全土に展開してその領土を併合し、同胞団の悲願は永遠にかなわぬものとなる。サワノ・イムレは2422年、祖国に戻れないままシモノセキで貧困のうちに亡くなった。
 レイマは総督を辞任しないまま2418年に没するが、死の数か月前から熱病で口がきけなくなっていた。