改宗と魂の遍歴

 あなたは神を信じますか? というのは、宗教が一般的に信仰されている場所では無意味な質問だぞ。
 今の日本では神を信じても信じなくてもいいと言われてしまうだろうが……僕にとって神について考えるのは知的な体操だと思う次第だ。

 僕は神を信じれば、自分の思考に軸を持つことができるのではないかと、いつも考えている。どこかでは、それもまた迷妄に過ぎないと笑いながら。

 信仰を強制するのと、誰かが葛藤の末にその信仰を選ぶのは別だ。
 日本に仏教が伝わって、広がったのはそれを一人一人が善いものだと信じたからではない。まずそれを限られた人間が受入れて、長い時間をかけて下々の者に広まった結果。
 ほとんどの民衆に細かい教義なんて分からない。見かけでは分かったように見えても、実際には自分がそれまで培ってきた常識の中に収めて、誤解している。
 神仏習合とか、違う宗教同士が混じり合うのは、研究する分には面白いけど、なぜそれが起きるか考えてみれば、人は完全に理解することはないからだ。
 日本の仏教学者の大家である中村元が「日本の仏教はシャーマニズム以上のものにならなかった」と言っているのは……確かにそう言いたくなる気持ちは分からないでもない。でもあらゆる人間が衝撃を受けて、葛藤して、信じることを選ぶのではないのは決まり切っている。宗教が定着するってある点ではそういうことなんだぞ……!
 近代に少数の日本人が魂の遍歴の果てにキリスト教に改宗したとはいえ、それはより多くの人間に関わる社会的な次元の話とはほとんど関係がないのは明らかだ。

 案外、宗教をビジネスの一つに当てはめるのは的確な考え方なのかもしれないな。イスラームの広まり方は? 商人が貿易と共に各地に浸透させていったからだ。
 キリスト教は最初こそごくわずかな信徒が必死に伝道して信者数を増やしていた。だがローマによる国教化を抜きにしては、あれほど大陸中に広まった原因は考えつかない。
 宗教の広まり方は、結局、そういう現実と強く関わる、きな臭い所から始まる。
 宗教は金を儲ける手段にもなる。免罪符がその代表だろう。だが宗教が文化を保つ機関として機能することもある。修道院で沢山の写本が書き写されていたことを思い起こせ。だから宗教とか歴史上しばしば起こってきた戦争の原因だ、とは言いたくないよね。何事にも表と裏があるものだ。

 多くの場合、宗教なんてのは人間の悪意や正義感に『おまけ』として織り込まれているに過ぎない。
 けれど時たま、宗教の熱意が多数の人間を煽り、支配してしまうことがある。

 救われたいという危機感、あるいは情熱が駆巡った事件は歴史上そういうことは度々ある。聖地へと巡礼し、聖人の遺物に触れることで恵みを受けようとする人々のことを考えた時、そういう『物語』は確かに人の生きる力を呼び起こすものなのだ。
 キリスト教や仏教に限らず、人の心の歴史の中には、人間の間に何回か信仰の覚醒ということが起こった。すっかり世俗のことで心を悩まし、苦しんでいる所に、それを死後の救いで帳消しにしてもらえる手段を教えてもらう。その情熱が人を生かすこともあれば殺すこともある。
 血なまぐさい方向に向かってしまった例ばかりを人は取上げようとする。だが僕は、あともう少しだけ人の善意を信じていたい。それがどんなに身勝手で、人から見て馬鹿らしいものだったとしても、人が変われる瞬間を見つめていたい。だって人間の心は良い方向か悪い方向かだけに変わるものじゃない。他人とのつながりで、どんな風にも見える。聖なる神々しい感じの人間が業の深い、嘘をついている人間に見えることだってあるし、その逆だって……。

 こういう過去や、人間の性質を理解して、僕はどのように考えればいいんだろう。
 何も確かな物を持つことができない僕は、信じることでしか軸を持つことができない。

 たとえ信心を持ったとしてもそれが子や孫に受け継がれるか?
 僕が自分が迷った末に持つことになった信心を他人に強制したくはないな……それは自分自身の問題として終えたい。なぜ人にそれを語ったり分からせてあげなくてはならないのだ。僕はこれをあくまで個人の問題として捉えたいのだ。どうせ多数の人間が宗教に入信する時、そこに内面の苦悩など関係ないのだ。