コトウラ市抄史

 ヒロシマ地方の北岸を漠然と指す『ウミゾイ』は2260年代から都市同盟による入植がはじまっていたが、実際にはシコク戦争後以前は長らくシコク及びクダリが都市同盟の主な開発先であった。最初ウミゾイはフクイと連絡するための回廊程度にしか認識されていなかった。
 本来が都市国家の集合体である都市同盟は、内陸よりは海岸に都市を建築するのを得意としていたのである。

 コトウラ市の開発を指導したのは主にナガサキ市である。2296年にコトウラ民会が発足した時点でまだルタオ人の土地に建国されてから20年しか立っていなかったが、ナガサキ市は自分を伝統ある都市として演出させるために植民市を建設することにやぶさかではなかった。元々コトウラへの植民は他の小さな都市が計画だけたてて挫折していたのを、ナガサキがルタオからの戦利品で蓄えた、豊富な財力で実現させたのだった。
 コトウラにはもともとトットリ人という先住民が住んでいた。最初キューシュー系住民が少なかった頃は平和的に共存していたが、他の同盟都市からの移民が急増すると、トットリ人は役所に放火して一か所に集まり、キューシュー人に対する独立を宣言した。こうして2316年、トットリ人との戦争が始まった。コトウラは他の都市にも援軍を要請しても彼らを鎮圧した。最初東西の広い地域に住んでいたトットリ人は都市部に分割して居住させられることでその影響力をそがれ、一部は南部に強制移住させられた。
 コトウラはそれ以後、軍事力を鍛えることに力を注いだ。その軍隊はニホンでは極めて高い水準に達しており、特にフクイはしばしば使節を送って航海術や戦術を学ばせている。コトウラの軍制は本土の同盟都市も参考にするほどのものである。
 2336年から2340年にかけては、フクイ王族ニノミヤ・センタ(2312-2369)が留学した。彼は後にアキタ総督になると都市で学んだ知識を実践に活かしている。シコク戦争でフクオカにやとわれていながら突如オーイタ側に寝返り、都市同盟のこの戦争での敗北を決定づけた大陸帰りの傭兵隊長ツツミ・サイト(2310-2369)も元はコトウラで軍事を学んだ身であった。最初は決して豊かではなかったコトウラは、軍事的な貢献による費用や武器の製造によって次第に繁栄していった。

 シコク戦争が終結した直後、コトウラは復興のために金を出した。そこで重い年貢を課せられたトットリ人は再び反乱を起こし、2358年から2360年まで続いた(第二次トットリ戦争)。ついに内陸にまで到達し、コトウラの最大の領土を築いた。そのためヒョーゴ国と領土を巡って何度も係争に至る。
 この頃になると、先住民は都市同盟系の住民に吸収され、ほとんど姿を消した。ウミゾイは百年以上都市同盟の植民地として存続しつづけたために、シコクとは違い土着の要素をほとんど消去ってしまったのである。コトウラはイスモ、マツェと同様に「ウミゾイというよりはキューシュー」と言われた。だがトットリ先住民が聖域としていた場所は都市の建国者を祭る廟などとして存続したし、一部の生活習慣、建築様式にはトットリの物が受け継がれた。その二つを分割することは極めて困難である。

 キューシュー戦争の間、コトウラは本土情勢を調査することに専念した。コトウラは極秘裏に諜報機関を組織しており、キューシューやカンサイに至るまでの広い地域に密偵を送りこんでいた。フクイやオーサカの緊張関係に巻きこまれないために、その内政に干渉することもあったようだ。彼らの存在は有名ではあったが実態は現代でもほとんど知られておられず、ために当時の不安定な政情の多くは、――例えばフクイのホカイド支配が崩壊するきっかけ、サルフツ事件(2416)など――コトウラの陰謀であると主張する者が少なかった。
 たとえば、当時のある民会議員のフクオカが一時コトウラに軍事の供出を持ちかけた時、密かにコトウラはフクオカ市の志願兵を離反させ、フクオカ市内の武器倉庫を焼討させた――と書かれている。
 キューシュー戦争終結後、地理的に遠く離れており被害をほとんど受けなかったコトウラはクニイ・センジン(2365-2432)指導のもと、軍事力に物を言わせてウミゾイ各都市に不平等な条件の元で同盟を結んだ。これには、国力を上昇させていくフクイ、オーサカなどカンサイ圏や、都市同盟本土で影響力を強め、ついに民会の決定を左右するようになったヒロシマ人に対抗するという名目があった。これに対し諸都市は密かに結社をつくり、コトウラ市に一致して対抗しようと誓った。
 果たして2430年ニ月三日イスモ市で暴動が起き、現地に住んでいた多くのコトウラ人が殺される「イスモ事件」が起きると、コトウラは再び他の都市に対する力を失って行った。これ以後は都市同盟よりもむしろ最近力をつけてきた南のヒロシマ人に注意を向けるようになった。

 2447年の三月から八月にかけ、ヒョーゴ・ヒロシマ軍がコトウラの砦を破壊する。しかしコトウラはヒロシマ人を見くびってさして砦を修復しなかった。そのためヒロシマ人に本格的にコトウラを侵略するための時間を与えることになってしまった。そのために2453年七月一日、「ツヤマの戦い」で惨敗する。これ以後、コトウラはかつてのような強さを二度と取戻すことができなかった。
 それでも一時期、また力を盛返すこともあった。2485年イスモ市の艦隊がコトウラ近海に押寄せた時には岬におびきだして壊滅させている。和平交渉の中でイスモとフクイの内通が明らかになると、コトウラ、フクイの関係は急速に悪化した。そこで何回かフクイから他の都市同盟へと出航する船をコトウラ軍が襲うこともあり、次第にニホン世界の中で孤立していった。イスモ市も2517年にはヒロシマ人に乗取られ、イスモ・ヒロシマ国になっている。
 26世紀以降都市同盟全体の力が衰え、ヒロシマやカンサイが大きく発展していくと、ウミゾイは経済・文化的な持味を失って行った。キューシュー北部他の国々が古い体制を打破して生まれていく中で、辺境にあったコトウラはほとんど存在すら認識されなくなっていった。
 2514年、フクイ王キヨノ・カスタ(治世2501-2527)が閉鎖的な傾向であることに味を占めたコトウラはフクイ領内に侵入して略奪を働いた。しかしトキハナ地方で宿営していたコトウラ軍はフクイ軍の奇襲を受け壊滅する。これ以後、コトウラは二度とフクイを襲うことはなかった。
 2531年に、フクオカ民会が滅ぼされ、マツモト・ギオがフクオカ王に即位した折には『最後の同盟都市』を名乗った。古代の民主政治を維持する生き証人というプロパガンダの元に排斥的になり、孤立していった。
 2540年、西ニホンが大陸軍の侵攻のために大いに荒れていた時には彼らに対する協力の意思を伝えるため使者を送ったが、にべもなく追いかえされている。コトウラはほとんど被害を受けなかったが、他の地域との交易が停止してしまったためにますます衰退していった。
 2544年、承知の通りカントー軍のイトー・ブッチギ(2506-2558)がフクイを滅ぼしてツルガ国を建てる。2547年にはコトウラに誼を通じようとする使者を送るが、コトウラはこの使者を斬捨ててしまったのが運の尽きだった。ブッチギはこれを深く恨んでコトウラを滅ぼすことを決意し、何度も派兵したが撃退された。ここにもまたコトウラの旧態依然とした愛国心が恨みとなった。
 2566年十二月、ブッチギの子ナオトが率いるツルガ軍がコトウラ城壁を包囲する。しかし防備は堅固であり、食料の備蓄も豊かであったからなかなか陥落しなかった。しかし2567年七月一日、城壁が破られ、ついに滅亡した。それはすなわち都市同盟そのものの滅亡を意味していた。