五柳先生伝を読む

 陶淵明の著した五柳先生伝は私小説に非常に近いものがあるのではないかと思われる。
 少し前に、藤澤清造「根津権現裏」を読んだ。それ自体は架空でも、清造の貧窮した環境は主人公の身の回りの環境を反映している。そこに書かれているのはもう一つの自分だ。こうなるかもしれない自分や、自分が将来するかもしれない物を語るのが私小説の醍醐味。僕にとっては、自分のありうべき姿を想像し、書くことほど面白いことはない。 面白さの意味が違うとはいえ、僕がはまるのはこういう小説なのだ。

 五柳先生とは、とある隠者だ。世俗のことに関わらず、ただ悠々自適に過ごし天寿を全うした人間。陶の姿と重なるように見えて、しかし違う。陶自身があまりに昔の人間であり、幾分か理想化されてしまっている人物なだけあって、だが彼の詩をよく読めば、さほど一言で言い切れるほどその人物像が単純でないことはすぐ分かるはずだ。
 五柳先生とは陶のなりたかった姿であるか、あるいは陶の現実の姿を反映しているものだと考えられている。
 深解不求……読書とは大抵それだ。本当に理解しようとすると専門的な学問になってしまう。今風に言えばディレッタントと言うべきか。当時においてはなおさら古代の歴史や聖人の知識に通じていることが重んじられたのだろう。それを取り巻く環境は大いに権威主義的だ。前の王朝を継承するための正当性を論拠づけるために歴史書は記されたし、古典のテキストの一体何が正しい文章なのか、中国では厳しく検証された。五柳先生が文章の意味をよく理解しようとしないのは、そんなきなくさい政争にとんと無関心だったからだろう。だが陶はむしろそれにとことん関心を持つ方だった。一回官職についた時も、不服を申し立てて辞めた。
『周續之祖企謝景夷の三郎に示す』という詩の中で、礼の講習と書物の校正を馬隊近くで行った三人の学者を陶は批判している。権力に対して非常に敏感だった。
 せっかく自分と好む所が合致した友人と、都からの命令のために別れなければいけなくなった恨みを詠む『答龐参軍』中で「王事は安きことなし」と言っているように。
 五柳先生伝の末尾は、これこそ古代の民の姿ではないか、という感嘆で終わる。まだよかった時代、古代への希求。陶の作品において、古代の理想を述べるものは本当に多い。昔は煩雑な政治なり学問なりに農事に結びつけることが多い。そして『勧農』の中で、陶は「孔は道徳に耽り、樊須をこれ卑しとす」という批判的な態度をほのめかす。

 桃源郷にしてもそうだが、理想とは、もう一つの現実に他ならないのだ。それ自体が自分自身のそうではない現実、認めたくない現実を逆説的に示している点で。
 桃源郷の語源は、陶淵明がもう一つ書いた桃花源記に由来する。とはとても美しい場所、という意味で使われている。しかし隔絶した村だ。そして古代から時間が止まり、外圧が自治が保たれている。逆に言えば当時の世相が殺伐としていたことがうかがい知れるのである。陶の晩年はそれこそ晋朝司馬氏の血統が劉裕によって絶たれるという一大事件が起きていたのだから。

 劉子驥という当時の実在した隠者を登場させることでリアリティを持たせる技巧に注目すべきだろう。なるほど当時は非日常に対するあこがれの強い時代だった。だがそれでも陶自身はどこか現実主義な性格を持っている。陶はようやく世の中に浸透し始めた仏教に対しても懐疑的だった。
 魂は不滅だとする慧遠法師に対して、魂もまた永遠ではない、だから命が尽きるまでは何かに酔わずに生きていこうと主張したのが『形影神』という詩なわけだ。
 厭世観が途端に強くなり、社会が衰退と混乱の中にあるほど芸術は爛熟状態に達するということは他の地域でも普遍的に観られることである。