詩の中の俗語

 文語と口語の違いは明確ではない。徒然草第十六段に、「常に聴き『たき』は琵琶・和琴」とあるように、どれほどかしこまった文体で書こうとしても、必ずその当時の話し言葉の影響が混じってくるものなのだ。
 ラテン語にしてもそうで、教会の文書でも必ず古代ローマに使われていない文法やつづりが混じってくる。-ae-が-e-になってしまうような。misericordiae(慈悲の)とあるべき単語がmisericordieとなってしまうようにだ。
 五胡十六国時代に成立した遊仙窟は漢文作品の中でも特に当時の口語が明確に表れている作品として知られている。この際仙とは仙人のことではなく、美女のことなのだ。事実これは美男子と女性たちとの逢瀬の物語なのである。

・多少

 孟浩然・春暁の結句にある「花落知多少」の多少はよく「たせう」「いくばく」と読んだ方が良さそうなものだ。現代中国語に「多少」は今でも使われている。
这个多少銭?(zhè gè duō shào qián これいくら?)という風に。
 知も「しる」と読んでしまっては日本語としては成立しない。ひとまず「はた」と読んだ方がよかろう。恐らくは単に語気を整えるための助詞以上の物ではない。

・若箇

若箇動君心(遊仙窟)

若箇は「どれ、どっち」を意味している。「若」もなかなか多様な意味を持つ言葉で、「もし」「~のごとし」など様々な意味を持つ。若為は何為ともい、訓読では「なんすれぞ」と呼びならわす言葉である。
これは、古語ではちょうど孰の字が当てはまるものである。(女与回也孰愈――論語・公冶長第五)

・子(接尾辞)

中島敦の『山月記』では「我が友李徴子ではないか?」というセリフが実に有名である。この「子」は敬称を表すものとしてしばしば解説されるが、確かに古くは子を敬意や親しみをこめて呼ぶ二人称として用いた。だが時代が下るにつれて別の意味での「子」が頻出するようになってくる。
「双燕子」と呼び、趙州和尚が仏道の要諦を問われ答えた「庭前の柏樹子」の中にある「子」は「孔子」「韓非子」のような敬意の表現を全く有していない。それは、単語を区別して分かりやすくするためか、あるいは響きを良くするための添え物以上の意味を持っていない。時には、「時有沈冥子」(白居易・香鑪峰下)のように、人の仇名を作ることもできる。ここから日本語の「の」とかよりも遥かに汎用性のある言葉であるとわかる。

・自従

 中国語においては一音節の言葉が区別しやすくするため多音節の単語になる傾向がある。「~から」という意味の字としてはたとえば自、従などがあるが、時にはこれも複数つけ加えることで複音節の単語になることがある。「自從不舞霓裳曲」(白居易燕子楼其二)などだ。現代の中国語でも来自(laizi)という言い方がある。「従」は現代でも普通に使われる言葉である。

・喜歓
中国語でxĭhuanは基礎的な語彙であるが、長恨歌の散文バージョンである陳鴻・長恨歌伝において用例が見られる(生男勿喜歓)。

・聞道
白居易・新豊折臂翁
「聞道雲南有瀘水」
知道(zhīdào)を彷彿とさせる。

・早晩
白居易・紫陽花「早晩移栽到梵家」
いつ、という意味だ。

・将無/将非
 十八史略中で、晋の阮瞻が王戎に儒教と老荘思想の違いについて聞かれた際、「将無同(同じようなものなのだろう)」と答えたのは良く知られている。この「将無」は少し形を変え、陶淵明・形影神の中で「将非促齢具(老いを進める筋道のようなものだ)」という形で用いられている。推量を表す言葉である。

 あらゆる詩は、本来話したままの言葉である。だが詩のスタイル自体が固定していくと人々がその規範を守るに連れ詩の言葉は実際の言葉と乖離していくようになる。我が国の短歌にしてもしかりである。
 たとえ若干口語の要素が混じっても、基本的には詩は書き言葉であり、話し言葉として理解されることを想定していないものだった。漢詩は特にその雰囲気が濃いものだ。