手書きの面白さ

 ネット上で文章を打つのに倦んで来たら、手書きを始めるのがいい。紙に字を書くのは、いい気分転換になる。
 最近紙に自作の漢詩を写した。こういうことすると、普通に勉強するよりもずっと時間が経ってしまうよね。絵を描くのと同じで、依存性があるかのようだ。

 ネット上には原稿用紙やルーズリーフ上に手書きで書かれたエッセイや小説の画像が色々と転がっているが、こういうのを見ると僕も同じようにしたくなる。パソコンやスマホで文章を打つのとはまた違った面白さがあるじゃないか。特に、昔の小説の、本になる前の草稿に文章を塗潰して消したり、あいだに新しく字を書入れたりして、推敲の跡がはっきり見えるのが一番目に留まる。こういうのは清書だと全く抹消されてしまってるからつまらない。添削している箇所で埋尽くされ、汚い感じがするのがもっとも見ごたえがある。紙その物が年月の経過で古びると、その紙すらも歴史性を帯びていく。そしてインクの匂い。それ自体が一つの生き物といってもいい。
 かつて太宰治「人間失格」や夏目漱石「坊っちゃん」の直筆原稿を収録している本を読んだことがあって、これは作品が今知られる形に成っていく過程を知る上で本当に貴重な資料だと言える。
 作品が成立する裏でどんな苦心があったか、そういうのはネットだと知るべくもない。
 もちろんそういうのは本来人に見せる物ではないし、ちゃんとした完成品がないからには評価のしようがないものだ。だから、逆に見ごたえがあるわけだけれど。

 それにつけても手書きというものにはそれ自体の価値があるよね。声と同じで、人柄が分かる。単一の形を活字みたいに、ごまかすことができない。そして、端末の電源を入れなくても、そのまま紙にさっと続きを書くことができるし、保存ボタンを押さなくたっていい。何か不幸な事故で電源が切れてしまったら、それまで書いていた何もかもがお釈迦になってしまう危険と隣り合わせなんだからな。紙の場合は、火で燃えたりしない限りは──例えば水に濡れたりと言った場合でも──耐久性があるわけで。

 何百年、何千年と残していくのを考えると、液晶に写る画像や文章よりも、実際に模様や点と線が刻み込まれた、アナログな物の方が強い。宇宙人にとどくことを想定して、人工衛星に積まれた記録も金属の板だったのだ。
 ネットにはネットならではの強みがある。その一方で紙とかプラスチックとか、手で触れられる記録というのもまた力のある手段な訳で。ネットで情報を書きこむことになれると、紙に書くことが懐かしくなるし、紙に何かを書いて一つの作品を作るということに刺激と面白味を感じるようになる。漢詩や絵の草稿を大学で使ったレジュメの裏に書込んでるから、そこからかつて自分がいた環境を知るよすがにもなるってことさ。何せその多くがスペイン語のプリントだから、そこに記された例文をなんとか覚えなきゃならないという気にもさせられるわけだが。
 実際、僕の創作活動は原稿用紙から始まったと言っても過言ではない。初めて小説を書いたときもまず原稿用紙に書き付けていたのだ。そしてそれを学校に先生に見て、誉めてもらったことだってある。
 そして作文帳に小説めいた物を書いてたことがあってだね…今ではその作文帳は処分してしまったけど、やっぱりまず下書きをやるのならノートに書くのが一番だね。原稿用紙で下書きをやると、裏を使わないのはどうなの? と僕の場合疑ってしまうから。
 英語用のノート、あれもいい。英語やスペイン語で小説を書くことに使えるだけじゃない日本語の文章を横書きで書くこともできる。
 それを原稿用紙に清書して、鑑賞に堪えるものにしていく。自分で締切も設定して、ある期日までは清書できるように推敲をおえておく…うーん、考えるだけで楽しくなってきたぞ。
 とにかく、紙に書かれた物を集めて保管したら自分が今まで創作にどれだけ打ちこんだか、より感覚として分かるだろう。