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斉藤斎藤氏の短歌を読む

 2023年1月26日の活動にて。
 花山先生が講義で斉藤斎藤氏の短歌を引用されたことが始まりでした。

アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました

斉藤斎藤(2003年)

 この歌を詠んだ斉藤氏は、イラク戦争に賛成していると思いますか?思いませんか?という問いでした。
 その問いにメンバーでああでもないこうでもないと話していたら、花山先生からとても面白いから200字くらいの文章にして提出してほしいと要望があり、3月までの活動の宿題になりました。提出後、先生からやはり面白かった!とコメントをもらいました。
 せっかく書いたし(文字数を超えた力作もあったりするし)、活動記録にしておくことになりました。

阿部 二三

 名前を名乗った上で賛成の気持ちを伝えていることに驚いた。「こころのじゅんび」とひらがなで詠まれていることも印象的で、柔らかい印象とは逆に機械的な感じがした。こんな風に言わされるような、いずれみんなの心が無くなってしまう怖い世の中になってしまうのではという警鐘を感じた。

大住 花歩

 これは、本当は反対している歌だと思いました。上の句は一見、漢字表記で賛成の決心を固めたように読めます。しかし、下の句のかな表記は敢えてのもので、実は上の句をやんわり揶揄しているように感じました。「今」のみ漢字表記なのは、反対という結論に至るまでの迷いを表現しているのかなと思いました。

黒澤 沙都子

 散文のように見えるこの一首を、短歌として発表したところに、眼目があるのではないか。下の句をひらがなに開いてあるのは、戦争に反対する自分の気持ちをそのまま詠めないことを汲んでほしいという意思表示のように受け止めた。戦争について、たとえ反対であっても、語ることがためらわれた当時の日本への違和感が伝わってくる。

小林 礼歩

 ぎょっとする一首である。アメリカのイラク攻撃に賛成?こころのじゅんび?額面通りに受け取るわけにはいかない面構えだ。
 漢字まじりの上句は新聞やニュース速報といった活字のイメージ、ほとんどがひらがなの下句は声のイメージだ。活字は時にプロパガンダとなり現実を侵食する。声はひとりひとりの内にありプロパガンダを察知する。
 「こころのじゅんびが今、できました」という下句がひらがなでなくなった時には最早手遅れなのだ。すでに「いま」は「今」となっている。声はプロパガンダを漢字に変換しないことで最後の抵抗をしているのだ。
 私たちに残されている猶予はあと何文字だろう。「心の準備が今、できました」で発動してしまう何か。その時私たちには「、」という句読点の猶予しかないのだ。

散田 帽子

 私は人の主張はまずはその通り受け取るが、この短歌はその後に、なぜそれをわざわざ短歌にしているのかという疑問が沸く。「こころのじゅんび」が平仮名で内容とは反した柔らかさにも違和感が残る。句読点を使っていることも引っかかる。言葉は分かりやす過ぎるくらいだが、手法がちぐはぐだ。戦争が始まることが避けられない現実を無理やり受け入れているのか。言葉通りに読めるかもしれないが、それでいいのか?と立ち止まらせる短歌だと思う。

花江 なのは

 挑発的な一首である。米国が対テロ戦争を掲げイラクへの爆撃を行った2003年当時に、この歌が詠まれた(※)意図は何だろうか。
 上の句の毅然とした「賛成」の意思表示とは裏腹に、ひらがなで書かれた下の句はいかにも頼りない。「こころのじゅんび」が「できました」と言いつつも本当はできていないのだと、あるいは、「こころのじゅんび」など本当はしたくないのだとでもいうような…それは、あくまで「賛成」することが先にあった上で「今、」「こころのじゅんび」を余儀なくされたとの印象すら与え、決して心からの「賛成」ではないことを感じさせる。
 主体の頼りなさげな「賛成」表明は、米国の一方的なイラク攻撃を、米国に追従するかたちで支持するほかなかった日本の姿に重なるように思えてならない。
 米国のイラク攻撃を容認するということは、米国が武力行使によってもたらす秩序を、また、世界が戦争へ傾くことそれ自体を受け入れるに等しい。我々にその「こころのじゅんび」が本当にあるのか、この一首は問うているのではないだろうか。
(※斉藤斎藤氏Twitter 2015年9月19日17:50ツイート参照)
参考文献:『「イラク戦争」検証と展望』寺島実郎・小杉泰・藤原帰一 編(2003年岩波書店)

本条 恵

 作者の気持ちは「賛成」ではないと感じた。
 「賛成」も「心の準備」も、部外者が遠くでただ好き勝手に行ったものである。そんな無責任な「主張」への批判であり、もっと言えば、戦争にまつわるメッセージを(標語のように)形にできてしまう短歌そのものへの警告、または自戒なのかもしれない。
 あるいは逆に、「大仰な表明を、一個人が短歌でしてみたところで何も起きやしない」という自虐(挑発?)という可能性もある。

宮原 まどか

 この歌が「アメリカのイラク攻撃に反対です」だったらどうだろうかと思った。
 それだと、「まぁ、反対ですよね」「そうだね」で終わる。「賛成です」としているからこそ、「どういうこと?」「この人は本当にそう思ってるのか?」「いや、何か意図があるに違いない」と私たちは考える。いろいろ推測するうちに「アメリカのイラク攻撃」や「戦争」や「平和」といった、ふだん使わない言葉たちが自分の脳に刷り込まれる。自分にとって戦争とは、平和とは、そんなことも考えさせられる。
 この歌を読んだ時、私はロシアのウクライナ侵攻を重ね合わせていた。こういう問題は自分には大きすぎて考えることを止めてしまいがちだ。ただニュースで状況や背景を聞いてふんふんと思うだけ、そしていたたまれない気持ちになるだけ。何かしたいと思っても、自分がちょびっと募金したからといって何になるというのか。次第にツラくなってニュースを見ること自体も避けてしまったりする。
 でも、一人一人が戦争や平和について考えることを止めてはダメなんだ。そんなことをこの歌から教えてもらったような気がする。戦争はどこか別次元の話、よその国の話と無関心でいてはいけないのだと。
 曽祖母が8月6日の広島の原爆のあと、市内の川が赤かったんだ、と言っていたこともまた思い出した。

(五十音順で紹介)


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