歴史は視点とセットで語られるべき

HHhH (プラハ、1942年)』という本がおもしろかった。ナチスドイツ時代にチェコで起こった出来事を題材にした小説だ。

当時のチェコはドイツに占領されており、ナチスの保護領という形で存在していた。その統治のトップに立っていたのがナチの幹部の一人、ハイドリヒという人物だった。

占領されたチェコの元大統領はイギリスに逃れ、そこで亡命政府を作り、反撃の機会をうかがっていた。そして実行されたのが「類人猿作戦」というコードネームで呼ばれるハイドリヒの暗殺計画。ハイドリヒは冷酷な人物として知られ、ユダヤ人の「最終解決」の責任者でもあった。そのハイドリヒを消すことで、ナチスに一矢報いることができ、各地に潜んで反撃のチャンスを待っている抵抗勢力(レジスタンス)を結束させることができると考えたのである。

その計画のためにイギリスからパラシュート部隊として、チェコ人とスロバキア人の若者がチェコ本土に送り込まれる。そして時間をかけて準備をし、現地の協力者も得て、ついに実行に移す。

若者がハイドリヒが乗る車の前に立ちふさがり、銃を構えて引き金を引く。するとそのとき、意外なことが起こった。映画のようなこのシーンを読んだとき、思わず「ああ」と声が出てしまい、天を仰ぎたいような気持ちになった。それほどこの物語と、主人公たちの視線にのめり込んでいた。いや、物語ではなく、実話だった。

この本が一風変わっているのは、歴史小説として話が展開しながら、それに平行して作者が文中に登場してくること。この事件に強く惹かれ、小説を書くために資料を集め、恋人に意見を聞いたりしている作者本人が、合間合間に登場する。それによって歴史のシーンが興ざめかというと、まったくそんなことはない。実際、自分も先の暗殺のシーンに没入していた。

著者が自分を登場させているのは、歴史小説に対するツッコミというか問題提起なのだろう。著者は、あたかも作者が自分で見聞きしたかのような歴史上の人物たちの会話が小説内でなされることに、違和感を持っていた。「真実に関心がない連中よりももっとひどいのは、進んで真実に手を加えようとする輩だ」と書かれているように、実在の人物の名を使って恣意的な話が作られていることに一石を投じたかった。

しかし、だからといって、この本は淡々と事実だけを並べていく資料的な本ではないし、ジャーナリストが書いたルポのような客観的な視線を心がけた内容でもない。チェコにルーツを持つ著者には、この事件に対する主観的な強い思い入れがあった。

暗殺を実行した若者は当時、自分たちの行為に意味がなかったのではないか、仕返しとして罪のない村(リディツェ村)が全滅させられたのも自分たちのせいではないか、と考えていた。それに対して、著者には「僕がこれを書いているのは、それは違うと彼らに納得してもらうためなのかもしれない」という気持ちがあった。

想像による創作で臨場感のある書き方を試みつつ、そこにあるウソっぽさや誇張された人物像が読者に伝わることを自覚し戒めるために、作者は現代の自分を登場させている。それは視点を明らかにして、その視点もろとも歴史を読者に伝えようとしているのだと思う。歴史は視点とセットで語られるべきなのだ。それはあらゆるルポタージュ、ノンフィクションにも言えることだろう。

その手法がラストのシーンで見事に表れている。読みながら一瞬「え?どういうこと?」と思ったけど、理解すると、作者と読者と歴史の当事者が、時と空間を超えてコミュニケーションしているような感覚になった。

読んだあと一刻も早くウィキペディアで、この本に出てきた登場人物を調べてみたくなった。別の視点、別の角度からも人物や事件を眺めてみたくなったからだ。そもそもこの事件のことを自分は全く知らなかったので、一般的にどう伝わっているのかを知りたくなった。そうやって別の角度からも見てみたくなること自体、著者の狙い通りなのかもしれない。

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