「1対1」に耐えられない言葉

最近、日本のいたるところで「ポエム」が広がっているという話を耳にする。居酒屋のバイトを鼓舞するために、夢とか愛とかそういう言葉をみんなで絶叫する、みたいな話だ。

この前も職場の人が「電車の中で、感動とか夢とかデカデカと書いてある冊子を読んでいる人がいて、何かと思ったら、どこかの会社のマニュアルのようなものだった」と話していた。ポエム化の波は、けっこう身近なところまで来ているのかもしれない。

そんなポエム論の発端のひとつが、コラムニストの小田島隆さんの論らしい。その小田島さんが書いた、
ポエムに万歳!』という本を読んだ。古くはサッカーの中田選手が引退したときに発表した文章から、2020年の東京オリンピック招致のための広告文まで、「ポエム化」した言葉についての論考が展開されている。

「ポエム化した言葉」というのは、なんとなく感じはわかる。聞いていて、なんともいえず恥ずかしくなるような言葉のことだろう。

どうして恥ずかしいかというと、まずその人が自分に酔っている感じ。冷静さを失って、公平で客観的な目を失っている感じがする。「それって本当だろうか?」と自問することが全くないような雰囲気だ。自問自答や他人からのツッコミの過程がすっ飛ばされて、そのまま世の中に出てきているのが、ポエム化した言葉なのかもしれない。だから「自分に酔っている」ことだけが、メッセージとして伝わってしまう。

でも、誰もがポエム的なものを作ったことがあるはずだ。自分も身に覚えがあるし、今書いている文章だって後々読み返してみたら、きっとそういう要素を見つけることができると思う。恥ずかしさには、自分の経験が投影されているのだ。

それはそれとして、現実的に「ポエム化」から自分が受ける影響は何だろう? 

自分が恥ずかしいと思うものが流行すると、なんとなく穏やかじゃない気持ちになる。自分の感覚が間違ってるんじゃないか。間違っていなくても、そっちが多数派なんだったら、自分の立場は何か不利になるんじゃないか。そんな不安がやってくる。「その下心は簡単に見破られるだろう」と思うことが、けっこう堂々と流通していて不思議に思うこともある。

自分は今のところ、書籍の言葉をいちばん信頼しているのだと思う。それが情報として正しいかどうかという前に、それを書いた人と1対1で向き合える気がするからだ。

結果的に多くの人に読まれるにしても、「1対1」がたくさんあると考えるのと、「大勢の人」というかたまりで考えるのとでは、言葉の性質が違ってくる。自分が苦手と思う文章や言葉は、個人を相手にしていると見せかけて、最初から大勢を相手にしようとしている。そんな気がするのだ。

そう考えると、ポエム化した文章とは、1対1で向き合うことに耐えられない言葉なのかもしれない。そんなことを思ったのだった。

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