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2月10日

明朝6時。

大学生になって2年、こんなに早く起きたことはない(まず起きる理由もない)。
しかも2月。
空気は張りつめ、寒い朝の音がする。

前日までに荷物は詰めた。
壁に立てかけた黒のバックパックは、もう起きている気がする。
「早くしろよ」と言わんばかりに、のそのそと身支度を整える僕を静かに、そして厳しく見つめる。
外はまだ暗い。

半袖半ズボンの上から、分厚い長ズボンと圧縮できるダウンを着る。
肌にナイロンの冷たさが伝う。

冷蔵庫の電源以外のブレーカーを落とす。
一層の静寂が訪れ、覚醒した僕とのコントラストが際立つ。
加えて、換気扇が部屋の音をかなり支配していたことに気付かされる。


部屋の扉が閉まる。


もうここには帰らないかもしれないという一抹の不安が頭をよぎるが、すぐ振り払う。

エレベーターを待つ間、窓に映った自分の姿を見つめる。
いかにも旅立つ人、という感じだ。


下に降り、エントランスの扉を開ける。
冷たい外気が顔に触れる。
これから僕を待ち受ける、まだ見ぬ異世界の厳しさを教えてくれているみたいに思える。

最寄りの地下鉄駅に歩いて向かう。

プラットホームには意外にも人がいた。
初老のサラリーマンのようだ。

彼は会社に。
僕は異国に。

たった数分、駅で人生の線が交わった僕とおじさん。
彼は僕のことなど気に留めてないようだったが、僕は何か深い縁のようなものを感じた。


地下鉄は進む。
車窓に覗く地下の暗い世界が、なんだか意味を持つように思える。

四条駅で阪急の烏丸駅に乗り換える。

駅では1日が動き始めていた。
改札に急ぐサラリーマンやOLがほとんどだったが、日々繰り返されている何気ないその風景がとても愛おしく感じた。

ホームへの階段を降り、艶のある臙脂色の車両に乗り込む。
席は埋まっていたので座るのを諦め、ドア付近にもたれかかる。
大きい荷物を背負っているので、目立つ。
周りからの視線を感じるが、気にせず窓の外に目を遣る。
雑多に並んだ家々の間から、太陽が顔を覗かせる。
朝日が車内に柔らかく差し込み、人々が顔を顰める。

この時車窓から眺めた、小高い山の斜面に並ぶ白壁の家々が朝日に輝いている光景は本当に美しかった。

淡路駅で天下茶屋行きに乗り換える。
関空まで格安で行ける切符を買ったので、乗り換えが多い。
でも僕には、日本国外に出る手続きの一つのように思えて、乗り換える度に徐々に玄関口に近づいている感覚が刺激的だった。

天下茶屋駅で南海電鉄に乗り換え、空港を目指す。
車両の電光掲示に映る「関西空港行」の文字が、僕を高揚させる。
いよいよ、という気がしてくる。
ここでも席に座れず、ドアの近くに身を寄せる。

しばらく走ると、りんくうタウンの観覧車が見えてきた。
この海の向こうが空港だ。
鼓動が早くなる。

間もなく、電車は関空への連絡橋に差し掛かる。
橋を渡り始めたら最後、今の今までいた本土がどんどん遠ざかっていく。
鉄橋を打つ車輪の音が、はやる僕の鼓動と重なる。
設計者は天才か、と勝手に感心する。

『千と千尋の神隠し』で、千が銭婆のところへ片道切符の列車で向かう光景がフラッシュバックする。

本土の方を見れば、朝の光がビル群から立ち上る靄に反射してなんとも幻想的な雰囲気である。
同時に、そっちにはもうしばらく戻れないという現実を否応なしに突きつけられている感覚に陥る。


そして、南海電車は連絡橋を渡り終える。

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