或る夏の夕方【懐古】【郷愁】
毎年この時期になると、僕の脳裏には夏休みに親戚同士で行うバーベキューの記憶がフラッシュバックする。当時、そこにあったにおいや音とともに。でも、その当時というものが具体的にいつを指しているのかは分からない。このイベントは毎年のように開かれていたが、かなしいかな高齢化に伴って最近はめっきり回数が減ってしまった。僕たち家族は毎年欠かさずそこに参加していた。
父のセレナに揺られて、母、弟2人と共に向かう。空調が効いた車内には、父の趣味で80年代に流行った洋楽のオムニバスが流れていた。出かける際には大抵の場合このアルバムがかかっていたので、時を経た今でも曲順や個々のタイトル、あらかたのメロディーを口ずさむことができる体になってしまった。
従兄妹の家に着くと、まず車をどかした車庫の中のスペースに、赤や緑の布張りの折り畳み椅子を並べる。そして、その中央にU字型のコンクリートブロックを横たえて溝の中に炭を熾すのだ。小さい頃の僕の仕事はというと、染みが所々にありプリントも明らかに平成初期のものであろう団扇(初代ドラえもんとその仲間たちや地方銀行のもの、木枠の朝顔のものなどがあった)を一心不乱に煽ぎ、伯父や父とともに火を焚くことだった。子供ながらに、無機質な黒い塊に徐々に火が灯っていく様を見るのが楽しく、いつもその役を買って出たものだ。汗を流し流し風を送るうちに、酸素を受けてまさに血が通うがごとく、木炭の内側が淡く赤らんでくる。炭が所々白くなり、裂け目から火が噴き出せば僕の任務は完了だ。パチパチという音を聞きながらしばらく待っていると、母屋の方から伯母が近所のスーパーで仕入れた肉や海鮮を大きなバットにいれて運んでくる。少し大きめに切られた野菜の中には畑で採れたものもあり、その断面は瑞々しい。傍らに置かれた年季の入った『COLORADO』の青いクーラーボックスの中には、ビート板のような分厚い保冷材に飲み物が埋もれている。夏休みも中盤、お盆前の普段とは違う非日常に心が躍る。
そうこうしているうちに、火の上にはステンレスの薄い網がかけられ、皆が揃う前に早くも肉が焼かれ始める。僕の中では、バーベキューというものはもれなくなし崩し的に始まる。決まった合図なんてものはない。でも、それが良い。
煙のにおいを察知し、あわててサンダル履きで出てくる従姉を尻目に肉を頬張る。少し焼きすぎて固い。でも、炭のにおいと黄金のタレの味がそのマイナスを打ち消す。母の、「肉ばかり食べないで野菜も食べなさい」という言葉にそのヘルシーな存在を思い出す。かわいそうに網の隅に細々と追いやられたキャベツや爪楊枝の刺さった玉ねぎを紙皿に放り込む。焼き肉のタレで食べる野菜は本当にうまい、と思う。そう思うのになぜか普段はやらない。
向かいでは父と伯父がアサヒを透明のプラコップに注ぎ合い、なんだか楽しそうにやっている。僕のコップも同じように泡立っているけど、紫色だ。ビールって、そんなにうまいものなのかなあ。においだけかがせてもらった時には、到底美味しそうには思えなかったけど。
満腹になってくる頃にはだいたい夕暮れが近づき、西日が向かいの山に沈んでいく。蚊やぶとがでてくる頃や、と婆ちゃんが蚊取り線香を焚き始める。あんなに燃えていた炭もめっきり白くなり、風で剥がれてふわふわと舞っている。その何とも言えない儚さがこの特別な一日を象徴しているようで、また、夜の帳が下りることと一日の終わりのシンクロに僕はきまって落ち着かなくなった。
その他にも、花火をしたりクワガタを捕りに行ったりしたなあ…なんてことを考える午後6時。場所は賃貸マンションの一室、窓際だ。昼間の暑さは和らいだものの、その余韻を残した生ぬるい風が網戸越しに汗ばんだ肌に触れる。みんな年を取った、と思う。あの時は過ぎ去り、もう戻らない。懐かしく愛おしき情景たちは、すべて色褪せたセピアの中だ。でも、黄昏に染まる空を眺めれば、いつでもあの頃に戻れる。
たとえ場所が、違っても。
ー2021年8月27日 京都市某所にてー
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