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俺たちは聖徳太子パイセンのことを見誤っていた③

前回の続きです。

我らが聖徳太子(太子パイセン)が、内憂外患だらけの日本を超人的オペレーションでどう立て直したのかを紹介するシリーズの3回目。前回からだいぶ時間が経っちゃいました😋

今回は「外患」です。前回紹介した通り、太子パイセンが活躍した時代の日本国内はヤバい状況だったのですが、当時は「国外の事情」つまり「外交」もマジヤバな状況でした。

何がヤバかったのかというと、一言でいえば「久しぶりに中華が統一されちゃったから」なんですね。

このとき中華を統一したのはという国です。
遣隋使」とか「小野妹子」とかのワードが連想されるあの「」です。

隋が中華統一したのは西暦589年です。聖徳太子パイセンが推古天皇の摂政についたのが593年なので、ちょうど太子パイセンが国政を運営する直前に隋が中華統一を果たしたということになります。

なぜ、隋の中華統一が日本や太子パイセンにとってヤバいことだったのか?というのが本ポストの主題です。

「中華統一」が意味すること

そもそも「中華統一」とはどういうことか改めて考えてみます。中華統一とは、広大な全土中国を1つの国(朝廷)が中央集権的に支配することを指します。

逆に「中華統一されていない」ってどういう状態かっていうと、たとえば封建制は中華統一された時代とは言いません。国内各地を有力者(諸侯)がそれぞれ統治していると同時に、諸侯の中でも特に権威/求心力のある諸侯が盟主(君主)となり、他の諸侯と主従関係を結ぶことで組織的に全国を統治するやり方が封建制です。日本でも鎌倉時代は典型的な封建制でしたね。「御恩と奉公」の関係性ってやつです。

封建制以外にも、中国は長い歴史の中で戦国時代や三国時代、南北朝時代とか五胡十六国時代とか色々なパターンの「中華統一されていない」時代を経て来ましたが、要するに「我こそが唯一の中国の王である!」と自他共に認められるような人がいないあいだは中華統一されてない(=内乱)状態ということになります。

中国の歴史を見ると「分裂」と「統合」を繰り返してきた事がよくわかります。

画像引用元:https://www.dailyshincho.jp/article/2022/08250615/?photo=2

歴史上、初めて中華統一を果たしたのは「」です。漫画「キングダム」でもお馴染みですね。

漫画キングダムより ©原泰久/集英社

史上初めて中華を統一した「」ですがわずか15年で滅亡しました。その後を継いだ「」は秦の反省を活かしてうまく政権を運営したので長期安定しました。その「」の衰退と共に始まったのが魏・呉・蜀の三国志で有名な「三国時代」です。そして三国時代の終わり頃から漢民族(=漢王朝の末裔)と辺境異民族との戦いが激化します。「五胡十六国時代」なんて時代がありますが、この五胡というのは「匈奴(きょうど)」、「羯(けつ)」、「鮮卑(せんぴ)」、「氐(てい)」、「羌(きょう)」という5つの辺境異民族のことです。辺境とは具体的にはモンゴルとかチベットとかを指します。辺境異民族の勢力が強かった時代ということですね。

歴史年表を見てもらえば分かるように、漢が滅亡した後、中国は350年以上ものあいだずーっと内乱状態がずっと続いていました。その長い長い内乱に終止符を打ったのがです。

中国の人からすれば「長かった内乱がやっと終わった!これからは安定した社会がやってくるね!」と思えたでしょうが、その中国と陸続きの朝鮮半島や私達日本にとっては中国の「内乱の終わり」は「脅威の始まり」でした。

最強の駆動OS「中華思想」

中国には秦の時代から漢の時代にかけて「中華思想」という国としての基本的な価値観というか思考というか姿勢が生まれました。コンピュータで言うならOSみたいなもんですかね。

この「中華思想」を一言で言うなら

「この世界は俺らを中心に回ってる」

という考え方です。図にするとこんな感じ👇

wikipedia「中華思想」より引用

現代のグローバルな世界地図が頭に思い浮かぶ私達からすれば

「ハァ?中国が世界の中心?何言ってんの?」

っていうのが正直な感想だと思いますが、当時の中国の文明や文化のレベルは確かに他の地域と比べて進んでいたのは事実です。羅針盤、火薬、紙、印刷という発明は中国が発祥ですしね。

とは言え「我が国が世界の中心である」というのはいささか傲慢な気がしますよね。某国の前大統領のように「自国ファースト」を主張するだけならまだ分かりますが、中華思想のヤバさはそんなレベルではありません。

皇天大帝から世界の統治を委譲された天子様がいて、世界最先端の優れた文明と文化と知識と徳を備えた我が国の中心から離れれば離れるほど、人々は野蛮で愚かで文明も知性もなくなってしまう。そんな可哀想な人たちを導いてあげられるのは俺たち(漢民族)しかいない!イェイ!」と割とマジで考えられていたことです。中華思想によって導くことを「教化」といいます。

たぶん中華思想のど真ん中にいる人から見れば、北狄(モンゴル)や西戎(チベット、ウイグル)の人たちはこんな感じで見えていたんでしょうね👇

中華思想的に教化対象の周辺異民族(日本含む)

漢民族の末裔の国であるは長く激しい戦いの末に異民族達を制圧(教化)して中華統一を果たしたわけですから、当然、距離的に近いのに中華思想の教化が済んでいない朝鮮や日本は次のターゲットになります。

一方、朝鮮や日本の立場からすれば、中国国内が内乱状態である方が幸せでした。だって中華思想の名の下に「可哀想だから教化してあげるね」なんてぶっちゃけ「余計なお世話」でしかありません。中国国内でドンパチやっててくれている間は少なくともこっちに来ないですからね。(この構図は現代でも同じですね)

朝鮮、教化される

ということで朝鮮が早々に隋により教化されてしまいました。隋は604年に2代目の煬帝になってから、中華思想という大義名分のもと、覇権主義的な圧力をより強く周辺国に掛けていきました。

隋の2代目皇帝:煬帝

当時、朝鮮半島北部には「高句麗」、半島南部には「新羅」と「百済」の3つの国がありましたが、百済と新羅はソッコーで隋の教化を受容しました。なお、高句麗だけは煬帝に繰り返し攻め込まれましたが、跳ねのけ続け、隋による教化に屈しなかったようです。高句麗つよい。(次の唐代に滅ぼされますが)

7世紀頃の朝鮮半島

でも太子パイセンはソフトが欲しい

そんな感じで、聖徳太子が推古天皇の摂政として国の内政を任されたのと同じ時期、海を挟んだ向こう側(朝鮮半島)ではすでに中華思想が猛威を振るっていたわけです。

隋の手が海を渡ってこちらに届くのはもはや時間の問題です。

めっちゃ怖くないですか?

状況的には幕末の日本にも似ています。

日本にとってずっと文化・文明の先進国であり追いかける存在だった中国(清国)が西欧列強にボロボロに蹂躙されているのを目の当たりにし、次はお前だと言わんばかりにロシア、イギリス、フランス、アメリカなど続々と黒船がやってきて開国(植民地化)を迫ってきたというのが幕末の日本の状況でした。

そして太子パイセンにはもっと大きな悩みがありました。それが前回のポストで紹介した「内憂」です。外交もヤベーけど、それ以前に国内もボロボロな状態でした。大化の改新後の混乱が収まらず不安定な政治状態、疫病の蔓延と社会的な分断の発生。この危機的な状況を乗り越え、安定した新しい社会を作っていくためには、何としても中国から最先端の文明・文化といったソフトパワーが必要でした。具体的にいうと、人々に新しい時代の到来を感じさせるようなピッカピカの思想哲学と、天皇のもとに国民が一致団結できる社会システムです。コンピュータで言えばOSをアップデートするようなもんですね。Windows XPからWindows 10とか、iOS 9からiOS 15とか、例えは何でもいいんですが、誰もが「おお、、、なんかずいぶん色々と変わったね!これは楽しみ!!」と思わせるぐらい大胆なアップデートを仕掛けないと、旧時代のレガシーを引きずったままの社会では立ち行かないと太子パイセンは考えたわけです。

で、そのソフトウェアはどこから手に入るのかといえば、中華思想を掲げて東夷・日本を教化してあげなきゃ!と本気で思っている隋からです。

ハードですね🤤

太子パイセンの「内憂外患」まとめ

ということで、太子パイセンが直面していた内憂外患をまとめると以下の2点になります。

1)国内をアップデートするため最新のソフトウェアを中国から取り入れなくてはならない。
2)国外の脅威(中華思想)に飲み込まれないように日本の独立を守らなくてはならない。

1太子パイセンがこのハードなミッションをどのように達成し、日本の独立を守りつつ社会をアップデートしたのか。次回から、そのミラクルオペレーションの中身を紹介します。

次回につづく。

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