長期休暇が終わってしまう話

長期休暇はつらい。毎週のようにサザエさん症候群に頭を抱えているのだからゴールデンウィーク、盆休み、正月休みのようなまとまった休みの終わりは週末の比ではなく、このまま二度と立ち上がれないかと思う程に胸が締め付けられて、頭は平衡感覚を失い、目はぐるぐると回っている。いっそのこと休まない方がマシだと思うけれど、世間が休んでいる間に自分だけ働くなんて事を受け入れられる程には人としての器が広くはない。兎にも角にも長期休暇はこれがあるから手放しには喜べない。休み明けがつらいなんていうのは多くの人が共有し得る普遍的な苦しみなのだろうけれど、人それぞれ感受性に違いがある以上その負荷に大小があるんだろうとも思う。
若林正恭のエッセイの中で「なぜ自分は生きづらいのか」を疑問に思うと書いていた。小学生の頃注射が怖かったり、失恋を半年引き摺ったり、彼自身が感じた心の負荷に対して「周囲の人間はこの苦しみを克服したのか、それとも最初から自分ほど負荷を感じていなかったのか」と考えていたらしく、これに僕は共感を覚えた。僕は苦しみに対してあまりに脆いのか、僕の苦しみが他に比べてあまりに重いのか。塞ぎ込んで潰れてしまいそうな時にずっと同じようなことを考えていた。
若林の文章はスッと馴染むように共感できることが多い。ただ、読めば読むほどに彼と自分との違いに打ちひしがれるような思いも抱いてしまう。前述のエッセイの続きで、彼は自身の抱える生きづらさに対して疑問に留まらず探究する。本を読み、考え、自分の腹に落とす。彼は苦しみにオチをつけるけれど、僕はそれが出来ていない。救われると同時に叩きつけられるような感じがする。
最近、憧れや好きに対して負い目を感じる癖がついていることに気付いた。若林のようなお笑い芸人だけではなく日頃触れる音楽や漫画、見ず知らずの自分にまで届くような発信力のある人間は当然優れたなにかを持っていて、思考や習慣、人間性には結果を得て然るべき理由があるようにみえてしまう(それは結果論に過ぎないのかもしれないけれど)。そんな素晴らしい人達と比べてしまえば自分なんてものは取るに足らないと卑下するのが決まりのパターンになっている。
ないものねだりだとわかっていてもこれがなかなかに重い負荷になっていて足首に鉛を括りつけていくように自分自身で身動きを鈍くしている。1番足りていないのは自己肯定感なのだろうけれど、ねだったところで誰も与えてくれない。

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