幸せだとか苦しいだとかの話

言葉の選び方にはその人の物事の捉え方が表れてくる。たとえば「苦しみ」の反対に「幸せ」を並べる人にとって、苦しみはすなわち不幸なんだとわかる。僕なら苦しみの対岸にはゆとりとか楽とかを置く。幸せと苦しみは共存すると思っているし、僕の中には同時に存在している。
自分自身を幸せだというとなんだか嫌らしいけれど、僕は事実として幸せだと思う。親の金で大学を卒業して、就活に苦労することもなく、短い期間に職を転々としたこともあるけれども結婚して子どもが産まれて家族を養えるくらいの仕事に就いている男を不幸だという人間は余程実家が太い上流階級か独自の幸福論を掲げる宗教家くらいしかいないんじゃないだろうか。
けれども苦しい。友達(彼はフリーランスとして働いている)と話す時、積み重ねてきたコストとその見返りとしての能力を比べて自分の不甲斐無さに沈み込んでしまう。子どもが笑う時、自分が生き辛さに苛まれているくせにこの子に同じ苦労を背負わせる身勝手さを苦々しく見下ろす俯瞰した目線が背中に刺さる。好きな漫画の主人公は皆努力家で、好きなクリエイターは人生の大半を作品と向き合っていて、好きなバンドマンも芸人も散々な苦渋と辛酸の泥水から這い上がる胆力を持っていて、そのどれもを自分が備えていないことに緩く絶望している。人生良いことばかりじゃないよ、という言葉で一蹴できてしまう程の惰弱な苦悩だと思う。そう思うからこそ更にヘナヘナと項垂れるのだ。
楽になりたいなぁと思う。どうすれば楽になれるのかを考えた時に昔旅館で働いていた時のことを思い出す。決まった時間に起きて決まった仕事をこなし、昼間にはまとまった自由時間があって、夕方から夜まで再び働いて仕事終わりには近くの居酒屋に顔を出すと知った顔がいたりいなかったりして、ほろ酔い状態で寮へ戻って眠りに就く。また朝が来て同じことを繰り返す。穏やかで変わり映えのない日々だった。
トドのつまり変化を恐れているんだろうか。ルーティンワークで刺激は少なくても安定した日常に安心したいんじゃないか。またありきたりな言葉で一蹴できてしまうところに落ち着いてしまって自分の平凡さに項垂れている。

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