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NO24・心・・・・

NO24・心・・・・ 死を恐れることなく 自分らしく生き抜いた 女性と共に歩んだ 約40年の愛の記憶や 共に歩み、悩み傷つき、学んだ想いをつづります 互いに愛に満ちた人生であっても 山あり谷あり 肉親とは・・・ 医療とは・・・・ 死とは・・・・ 生きるとは・・・・ どこかの誰かに 何か届けば幸いです _____

今日は娘夫婦と萩焼師の丹妙山に昼食にでかけた・・・         宇田川渓山さん夫妻                         女房が生きてる頃からお世話になり                  心沢山頂いてます。                         

このあと抹茶とデザートがあったのですが画像撮り忘れちゃいました

帰り際に奥様との会話・・・・                    命日8月26日を覚えててくれた事に                 言い様のないものを感じ嬉しかった。

                                  人と人との間に存在する言葉                     体裁や世間体の言葉に傷つき悩んだことも               人間不信に若干なったりも・・・・・                 そんな時、丹妙山を訪れると不思議と何かを感じ            心が少しフラットになって帰れました

渓山さん、奥様 今日もありがとうございました            料理美味しかった~~

来月で成美が海にかえり2年です・・・・

死を意識することは今を生きることと思い
私共夫婦は何十年も前から自分達の
死について話してきました
それに基づき希望通りに
自宅にて最期を迎え
通常の葬儀、位牌、仏壇、お墓など一切必要とせず
勿論、喪服も着ません。普段着です
気が付けば全員サンダルで火葬場にいました              全員が喪服や着飾る時間も惜しんで                  最後の一秒まで成美の方を向いてた証だと自負してます
死後は前より決めてた通りに
通院してた益田日赤にて解剖提供
26日夕方に亡骸が戻り、自分達で妻の旅立準備
死に化粧と着替えの浴衣は
数か月前に本人を交え決めたものです
化粧と支度は娘がしました
お棺には大好きな庭のハーブの花と
野のユリを添えました
翌27日娘の旦那の車にお棺を乗せて
思い出の地を走りながら火葬場に到着
火葬場では火葬される寸前まで
お棺全部を開き
手を握り
最期のKissでお別れをしました
3時火入れで
4時15分ころ骨となりました
全ての骨を持ち帰りたかったので
骨壺は2個でした
翌28日お骨は好きな海に旅立ました

平成28年 10月20日
益田日赤で
日赤に定期的に診察に来られる
島根大学医学部付属病院の
血液内科の医師に余命1ヶ月
急性リンパ性白血病と診断される
翌10月21日に
島根大学医学部付属病院に緊急入院

本来なら化学療法をせずに死を含め
全てを受け入れる
考えを持っていた成美でしたが
この度は夫を気遣い
シフトチェンジでした

抗がん剤による寛解導入開始
寛解とは見かけ上、消滅した状態ですが
骨髄など採取し細かい検査をてみないと分からず
完治とは別物です
寛解導入は成功し、寛解状態になる
次の治療に入る前に一時退院
再入院で
合計6回の地固め療法の1回目開始
一回目の地固め療法成功し
2度目の一時退院
2回目の地固め療法で再入院
1月2回目の地固め療法で
過去2回使用し
何ともなかった有力抗がん剤で
アナフィラキーショックを起こす
今後この有力抗がん剤は
使用できません
もともと5年生存率
40パーセントの病気ですが
これを機にさらに生存率は低下
医師から骨髄移植の話も出る
もともと骨髄移植は
しない強い意志の妻でしたので
一命を取り留めた妻は
「もういいよね家に帰っても」と訴える
ここまで3か月と12日
私の心の整理
猶予を成美からもらった私は
成美の当然の選択を
心から受け入れられました

断続治療を進められるが
島根大学医学部付属病院を寛解状態で
平成29年2月2日自主退院

平成29年
2月上旬~ 6月下旬まで4ヶ月強
自然療法に自宅で取り組む
自主退院を聞き心配し娘が奄美より
2月7日無期限で山口に来てくれる
20日いてくれて
様態の良さを確認し2月27日帰省
平成29年6月26日益田日赤で
昨年10月の発見時より
悪い数値で再発発見
医師に
「会いたい人がいれば今ですよ」
と言われる
これを機に自然療法も止め
余命を楽しむ方向性で生きる
食も感染症を恐れずに
食べたいものを食べる
再発の連絡を受け
平成29年6月27日
娘夫婦が山口に来る
成美の最期までのいる覚悟で
仕事を止めての事
余命は
10日と無いと思っていたので
平成29年6月28日
娘夫婦と4人で最後の晩さん会
平成29年6月30日
息子夫婦が来て
6人で最後の晩さん会
死を恐れてない成美は
笑顔で皆と楽しみました
旅立の支度は
可愛い浴衣を皆で
ワイワイしながら選びました
ところが奇跡的に
特に体調異変も無く
食べ物が美味しい日々が続きました

旅も何度かしました

美容院で髪も2回染めました

ネールも2回できました

本人は笑って
「死ぬ死ぬ詐欺になっちゃった」て言ってました

とても辛い10ヶ月だったと思います
亡くなる寸前まで人の事を気遣う成美でした
FBの記事も動画も本人了承の上でした

『色んな生き方があるけど
自分らしく最期を迎えたい人は
沢山いると思う
でも、、、
状況やタイミングで必ずしも
したい通りにできない人も
いると思う
私はできて幸せ者
私の葬儀に対する考え方や
最期の生き方が
正しいとか間違ってるとかは無いと思う
人それぞれだから、、、、、
搭載することで
誰かの役にたてたら嬉しいな~』

そう日々言ってました
娘の言葉をかりれば

可愛く、ピュアでファンキーで
不器用でクレイジー
そんな人でした

残されて淋しく悲しいのは当然ですが
成美の生き方をFBに掲載し私は
亡くなった後も
多くの反響を体全体で感じてるのですが
この反響が
成美が感じられないのが残念です

常識からは逸脱した
葬儀と最期だとは思いますが
成美が自然に戻った今
遺骨も位牌も遺影も仏壇も墓も無く
感じることは
どこにいても
成美を感じられると言う事です、、、

平成28年 10月20日 
益田日赤で
急性リンパ性白血病と診断され
余命1ヶ月の宣告受ける

平成28年 10月21日  
島根大学医学部付属病院に緊急入院

平成29年2月2日    
島根大学医学部付属病院を
寛解状態で自主的に退院

平成29年2月上旬~ 6月下旬
4ヶ月強、自然療法に自宅で取り組む

平成29年5月下旬
★成美と2人で
1泊の別府旅行に行くも不調
考えに考えて
発病以来初めてアイスを食べる

平成29年6月26日
益田日赤で
昨年10月の発見時より悪い数値で
再発確認
医師に
「会いたい人がいれば今ですよ」
と言われる               
自然療法も止め
食の制限を解除する

平成29年6月27日
娘夫婦来る 

平成29年6月28日
髪を染めて娘夫婦と
4人で最後の晩さん会

平成29年6月30日
息子夫婦来る

平成29年7月2日
息子夫婦帰る

平成29年7月5日~7月11日
★成美と2人で6泊7日の
宛てのない無計画な旅に出る
11日は奇跡的回復で足もかろやか
山口→尾道→松山→若狭湾
→輪島 、金沢→神戸→島根県
旅行の最終日の11日診察受ける
病状は白血球が限りなく
0状態で
本来なら無菌室に緊急入院状態

平成29年7月13日
娘の夫ボルト(オランダ人)
が一時奄美に帰る

平成29年7月15日
★成美と娘と3人で
佐世保の旅2泊3日に出る
15日佐世保バーガー食べて
16日ネールし17日平戸に行く

◆平成29年7月19日
成美と娘とで
下関シーモールに1日遊びに行く
スタバにも行き夕食を楽しく食べる

平成29年7月23日~26日
★成美と娘とで広島旅行
24日は駅前ホテルで宿泊し
夜景を見ながら楽しくディナー
旅行の最終日は発熱38度5分と発熱

平成29年7月26日
旅行の最終日26日は
発熱38度5分でも
予定通りに美容院に行く

平成29年7月27日
自宅にて高熱続き嘔吐
病院に行くことを本人に確認し
本人了承の上救急車を呼ぶも
救急車では酸素を拒否
隊員には
覚悟してくださいと告げられる
病院では以前より伝えた通りに
酸素は無し
緊急輸血は本人了承の上
輸血する

平成29年7月28日
自宅で対処療法希望の為
回復したので退院
27日は本人の記憶はほとんど無く
本人に救急車を呼ぶ確認と
輸血の確認は記憶に残ってない
輸血を了承したことも記憶に無し
この経験で後に
成美の想い通りに
この世を去ることができる

平成29年7月29日
口内炎になる

平成29年8月2日
◆成美と娘とで角島方面に1日遊ぶ
徐々に口内炎悪化
液体もやっとの思い出飲む状態

平成29年8月7日
◆成美と娘とで
津和野方面に1日遊びに行く

平成29年8月8日
検診で白血球400
しかし90%以上が正常な白血球と診断され
医師も首をかしげる奇跡が起きる
この様な状態の老人が
治療をせずに治った
実例があると聞かされる

平成29年8月10日
◆成美と娘とで
山口に2度目のネールに行く

平成29年8月12日
口内炎も良くなってきて
ハンバーグが食べる

平成29年8月14日
白血球20000と
白血病症状に逆戻り
8月8日の奇跡の診断より1週間
希望を持ってたので
精神的につらい診断でした

平成29年8月15日
★娘が介護の為に夫婦で
山口に引っ越してくれる為
関西空港より17日に
一時帰省の娘を送るのと合わせて
4泊5日の旅に出る
広島でお好み焼き
尾道の道の駅と良く食べた!
→倉敷ではラーメン食べる
16日京都で
フロシキを買い17日娘と別れる

平成29年8月23日
娘夫婦が車で
奄美より夕方前に到着
「心臓に負担がかかる
痛み止めを飲んで
来る前に亡くなったら失礼じゃん」
と言って
来るまで痛みを我慢し
最小限の痛み止めを使用

平成29年8月25日
病院へ次の北海道の旅の準備の為に
痛み止めの処方を頂く
旅先での万が一に備えて
先々の病院で困らぬように
紹介状を先生に書いて頂ける
帰りにはスーパーで買い物
夕飯を梨桜を交えて楽しく3人で食べる

平成29年6月26日
朝5時ころ起きぬけに
「今日はよく寝れた。お父さんは?」
と言ってトイレに自分で行き
一時たち
「少し調子悪いからソファーでいい」
と言いソファーで寝る
8時前に具合が悪そうなので
娘にメールを入れる
8時になり
「9時になったら梨桜呼んでくれる」
と訴える
この様な事を言ったことのない成美なので
この時点で
まもなく来る死を覚悟したんだと思います
痛み止めと睡眠導入剤を使用
9時か10時ころ?には
意識はモウロウとしてるなかトイレに
この時には車椅子で介助しての
トイレでした
トイレから戻り
ベッドがいいと言うのでベッドで寝る
時より目覚めて水を何度か飲む
12時30分頃?息が荒く
小刻みになり始める
1時少し前に体の置き場のないようで
意識の無い中で
足で布団をよけたりし始め苦しそう
13時15分他界する。

飯田 成美  
昭和35年9月10日出生
昭和53年【17歳】  3月27日firstデート 
昭和57年【22歳】 10月27日結婚
昭和58年【23歳】  7月28日長男、優樹 出産
昭和63年【28歳】  2月27日長女、梨桜 出産
平成29年8月26日13時15分
56歳11ヶ月16日の現生に幕を引く

追記

白血病でも笑って死ねる
で検索すると53回掲載した動画が見れます
最後は2017年8月12日でした
フェイスブックは飯田広で検索しますと
発病してからの10ヶ月間の様子が
動画と写真で見れます

自主退院し自宅に戻っても元の生活は取り戻せませんでした
前半は様子を見て散歩も少し出来ましたが
大半がソファーでの生活でした
それでも亡くなる前日まで食べれて食を楽しめたことが
幸いでした
亡くなる前日も一人で風呂とトイレはできました

いつ急変が来るかは医師も判断できない病気です
いつも明日その日がくるかのおもいでした
旅も車椅子持参の旅で
旅先で死を迎えてもよい覚悟での旅でしたが
幸い楽しむことができました
短すぎる2人での歩みですが
幸せだったと言ってくれました





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