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私の人生会議クロニクル


2012年ー和歌山ALS訴訟ー

私は、弁護士をしていて1度だけ、いわゆる「幕出し」をしたことがある。幕出しとは、裁判の判決や和解の日に、判決言い渡しの瞬間に法廷から裁判所の外まで猛ダッシュして外で待っている支援者とマスコミに向かって垂れ幕を掲げる、あれだ。どちらかというと負けて「不当判決」という幕を出すことが多いが、私は運よく「勝訴」を出すことができた。それが、和歌山ALS訴訟(和歌山地判平成24年4月25日)だ。

事案は、在宅で生活するALS(筋萎縮性側索硬化症)患者2名が、和歌山市に対し、当時支給していた12時間/日のヘルパー派遣時間数では自立した日常生活を送るのに到底不足する、として、24時間/日以上の派遣時間の義務付けを求めた裁判だった。結果として、21時間/日以上のヘルパー派遣を義務付ける判決となった。社会保障法界隈ではちょっとした騒ぎになる判決で、日弁連も会長談話を出したりした、そんな事件だ。

実は、幕出しをしておきながらアレだが、本件に参加したのは最終準備書面段階で、期日には尼崎の事務所から和歌山まで遠くて行けなかったため、判決文に私の名前は載っていない。それくらいのかかわりでしかなかったが、初めて出会うALS当事者、その在宅生活、視線入力の意思伝達装置でコミュニケーションを取り、私たちが打ち合わせをする隣で黙々と痰吸引をする職人のようなヘルパー、ずっと当事者に語り掛ける家族、そのすべてが衝撃だった。裁判には何一つ影響を与えられなかったが、「弁護士でも、こういう生活を支えることができるのか」と衝撃を受けた。弁護士登録をして、2年ほどのころのこと。

ちょうどそのころ、尊厳死法という法案が国会に提出されるのではないか、という機運が高まっていた。当時上程されようとしていた尊厳死法案は、

①行いうるすべての適切な医療上の措置を受けた場合であっても、回復の可能性がなく、かつ、死期が間近である(これを「終末期」という)と判定された患者について、②患者本人が尊厳死を希望するという意思を文書で表示している場合に、③医師は、単に当該患者の生存期間の延長を目的とする医療上の措置(これを「延命措置」という。)を中止したり、新たな延命措置をしないことができる。④この法律に基づいて延命措置の中止などをした場合は、民事上、刑事上の責任を問えない。

という内容だった。ALS患者にとってみれば、病状が悪化し、いずれ人工呼吸器を装着して生き続けるか、それを諦めるかの選択を迫られることが多いところ、「呼吸器をつけない」という選択肢を許すような法律ができれば、家族、医療者、支援者、みながそちらに流れてしまい、実質的に呼吸器をつける、という選択ができなくなるのではないかと恐れる。医学的には呼吸器を装着すると何年も長期間生き続けることができる。参議院議員の舩後靖彦さんもそのおひとりだ。
ところが、そうなると介護の負担も重くなる。「自分が介護しなければならないのではないか」と思う家族にしてみれば、簡単に「生きてよ!」と言いづらい将来を思わずにおれない。そんなにきれいごとではすまないのだ。現に、7割の患者が呼吸器をつけずに亡くなっている、というデータが、患者一人一人の修羅場を物語る。

しかし、さっきの和歌山ALS訴訟の結論を考えると、そうはならない。なにせ、ほぼ24時間の介護を、行政が保障するべきだ、という判決だからだ。これが保障されれば、まず家族は介護負担から解放される。そうしたことを抜きにして「生きてよ」と言える状況になる。ただ、2012年4月25日に全国で初めてそのような判決が出たにすぎず、全国的には塩対応を食らう患者が山のようにいる。公的に介護が保障されることを知らずに、やっぱり家族介護の負担を恐れて「呼吸器はけっこうです」と言ってしまうケースが大多数かもしれない。そんな「生きる権利」がおぼつかない状況の中で「死ぬ権利」だけ法律で守るのは順序が逆ではないか。

・・・と、いうのが先の事件を担当した弁護士や支援者たちの強い思いだった。私も、そう信じていた。こんな風に(若気の至りの原稿)。

2015年ーとなりでどこかのおじいちゃんが亡くなったー

ここで急に話は変わる。

和歌山ALS訴訟をきっかけに、全国から(いや、マジで北端は札幌だった)同種の依頼が弁護団に舞い込むようになり、対応できる弁護士も少なかったことから、私は自分の身体のことをそんなに考えずに、後に配偶者になる主任の弁護士にくっついて飛び回っていた。するとある日、インフルエンザに罹ったのをきっかけに、私の副腎が動かなくなった。人生で初めての副腎不全だ。細かい説明は端折るが、私が抱える下垂体機能低下症のうち、副腎機能低下の重症化で、一言で言うと、放置すると死ぬやつだ。

私は救急に運ばれ、コルチゾールの点滴を受けていると、カーテン越しに隣のベッドにどうやら高齢者が運ばれてきたようだ。家族が医者に呼ばれ、「もう、いいですよね。○〇さんがんばりましたもんね。」と告げられる。

えっ、これってもしや、もしや・・・

「はい。お願いします。」

あ、いや、この流れからすると、次は・・・

しばらく間があり、

「○時〇分、ご臨終です」

後にも先にも、人の死の瞬間を目撃したのはこのときだけだ。いや、カーテン引いてたから見ていないけれど。

あまりにもあっけなかった。

家族は、もうずっとこの医師と、今しがた亡くなった親と、闘ってきたように思えた。臨終の決断は、それこそ「阿吽の呼吸」だった。しかしだからと言って、この親の「生きる権利」を損ねているようにも見えなかった。その瞬間を見ただけなので、それまでどのような紆余曲折があったのか、ひょっとしたらおじいちゃんはもうちょっと生きたかったのかもしれないけれど、どうもそうは見えなかった。

このおじいちゃんと、ALS当事者との違いは何なのだろう。

自分も死にかけてる頭でそんなことを考えた。

2017年ー緩和ケアと出会うー

あれからずっと、「おじいちゃんとALSの違い」を考えていた。あのおじいちゃんに限らず、ご高齢の方の中には、「人工呼吸器や胃ろうをつけてまで生きていたくない」と言われる方は多い。弁護士の業界を取ってみても、大多数は、尊厳死という言葉を使うかどうかは別にして、「ただ生かされているだけ」の状態を避けようと努力される。最近流行の「終活」の本をいくつか見ても、遺言書の作成と一緒に公正証書で「尊厳死宣言書」も作成しておくことを勧めている。法的効力は、それほどないのだけれど、公正証書まで作って「人工呼吸器、要りません!!」と宣言されると、いざその時になったら、「お、おおぅ、なら止めとくわ」となりそうである。

ためしに自分の親にも聞いてみたところ、やはりそこまでして生きていたくないという。多少疑問を持ったとはいえ、尊厳死と聞くとALS当事者のことが強く浮かぶ私は、「でも、呼吸器つけて話せるかもしれないよ」「胃ろうつけててもできることはあるよ」とかいろいろ言うのだが、親はやっぱりそこまでしたくないという。ケンカになりそうな勢い。

ただ、私はたまたまALS当事者と出会ったのでこのような考え方になっているが、尊厳死に対する一定のニーズがあるのもまた事実なのだ。死ぬ間際に苦しみたくない、という気持ちはそれほどおかしなことではない。そして、尊厳死法案にあったように、回復の可能性がなく、かつ、死期が間近である状態ってやっぱりあるのだ。2015年に出会ったおじいちゃんのように。

そんなとき、「緩和ケア」という単語に出会った。

Twitterでフォローしていた、神戸の在宅医新城拓也先生の著書である。「余命宣告の向こう側」というサブタイトルからもわかるように、医学的に治ることが難しくなってからのケアについて、わかりやすい文体で紹介している。

私は、「緩和ケア」「ホスピス」と言われると、残念ながら最終段階に入った方なのだな、と思うほどには素人だ。そんな私のイメージとは、少々異なる緩和ケアがここにあった。まず、何よりも患者と医師のコミュニケーションの充実がすごい。その中で、治療方針が決まっていく。その時々の体調、気持ち、家族の思い、様々に揺れ動く要素を、その時々に吸収し、合意形成をしながら生きていく。そこには、「尊厳死を認めるか/認めないか」という、直線的な境界線はなかった。あるのはグラデーション。

2019年ー弁護士と医療のかみ合わなさー

この年、ある弁護士会の企画で、人生の最終段階の意思決定に関するシンポジウムが開催された。パネルディスカッションに呼ばれていたのは、医師・介護施設職員・がん当事者・弁護士。

医師からは、がんにかかった認知症高齢者に対し、必要な手術の説明をどのように行い、どのように同意まで至ったか、といったプロセスに関する実践報告がなされた。患者本人は認知症だが、成年後見制度は利用していない。というか、報告全体にわたり、成年後見制度ではなく、臨床倫理審査の過程で同意能力の点はクリアしていく。本人の現在の状況にあわせて「どうやったら伝わるか」をチームで考え、現在の意思を確認する。

最近、こうした人生の最終段階の医療に関する決定をするプロセスのことを人生会議と呼び、積極的に行うことが呼びかけられている。私が2017年に親とケンカ寸前の状態になりながら「人工呼吸器どうよ」と聞いた場面も、たぶん人生会議の一つなのだろう。もともと、医学用語でAdvance Care Planning(ACP)と呼ばれていたが、なんだかよくわからないので日本語をあてたところ、人生会議になってしまったらしい。ちなみに、個人的にはACPの方がかっこよくて好きだ。

さて、先ほどのパネルディスカッションでは、判断能力の低下した人やがんで治癒が難しくなった人の治療に関する意思について、医師、施設職員(ソーシャルワーカー)などのチームでどのように受け取っていくかという対話(コミュニケーション)過程(プロセス)に関する議論が交わされる。そこに「成年後見人」という単語は入ってこない。一方、弁護士はどうしても、「後見人としての職務」の話をしがち、というか、成年後見人というポジションを通してしか、人の終末期に関与する接点がないのだろう。そして本人の意思を文書化することにとても強い関心を寄せる。だから、たとえば本人が意識不明の状態で救急搬送され、どこまでの処置をするか判断を迫られたとき、医師・ソーシャルワーカー・当事者は、それまでたどってきた本人との物語や文脈から推し量ろうとするが、弁護士だけ「本人が書いた文書」を根拠に方針に加わろうとしているように見えた。

・・・あ、あれ?? なんか違う。なんか全然違うくない??

私もそうだったが、弁護士として成年後見人になっても、月1回もご本人に会いに行くことは難しい。一番大事な結論に直接影響を及ぼすチームメンバーとして加わるのであれば、他のメンバーと同等の密接な人間関係が築けている必要がある。そうでなければ、「今」その人がどう考えているかなどわからんくない??

終末期を迎える大多数の人には成年後見人はいない。人生会議は、成年後見制度とまったく接触を持たずに亡くなっていく圧倒的多数の事例の中で実践される。人生会議一般を考える中で、ほんのごくわずかな成年後見制度を利用する人を通じてのかかわりが本当に「弁護士にできること」なのだろうか。

2020年ー新型コロナウイルス感染症ー

たかだか1㎛にも満たない小さな物体にえらい目にあわされたものだ。2020年、新型コロナウイルス感染症のおかげで、地球規模でさんざんな目に遭っている。とりわけ、基礎疾患のある者、高齢者は重症化するリスクが高い。2021年になったばかりの現在、人によっては発症してすぐに電光石火で重症化し、亡くなる事例も増えている。呼吸器に症状が集中するため、重症化すると、終末期医療の象徴のように言われる人工呼吸器を使うか否かの選択を迫られる。

これらは兵庫県の話だが、おそらく兵庫県よりも感染状況のひどい関東地方では、これと同じような場面があちこちにあるんじゃないかと思う。こうしたシビアな選択を迫られるのも高齢者が多い。そうすると、新型コロナウイルス感染症でなければ、その多くは人工呼吸器を回避する意思を表示してきたのではないだろうか。それは、年齢か、疾病か、どちらにしても、人生の終末に向けて段階を踏んだストーリーの中で迫られる選択であり、本人も、家族も、ある程度腹をくくって「呼吸器はけっこうです」と答えるのかもしれない。

ところが新型コロナウイルス感染症が重症化する場合、そんな悠長なストーリーはなさそうだ。心の準備も何もあったものではない。もしも重症化した高齢者の中に、遺言書を作るついでに尊厳死宣言書も作った方がいれば、新型コロナウイルス感染症で人工呼吸器をつけるかつけないかの場面に直面すると、かなり強い力で「つけない」という選択に流れていくだろう。

でも、それで本当にいいのだろうか。

そういえば、年末に親にもう一度、終末期に人工呼吸器とか胃ろうを勧められたらどうしたいか聞いてみた。するとやっぱり親は嫌だという。そこでもうちょっと聞いてみた。

「今、コロナで人工呼吸器とかECMOとか言うてるやんかー。もう高齢者やんかー。もし今コロナにかかって、そんなこと言われたら、つけんでええ?」

「え、今!? 今は嫌や。こっちへ帰ってきたいわ。」

「人工呼吸器はつけたくありません」といくら言ってみたところで、「じゃあ今、つける?」と聞かれたらこんなもんだ。なにもわざわざ、具体的な死に際のイメージもないのに、今のノリと勢いで文章に残して、未来の自分の首を絞めることもないんじゃないか。

結局そういうことなんだろう。

2021年ー人生会議を守るために、法律家にできることー

緩和ケアに関してさっき上げた本や、下記の本を読むにつけ、この、とても人間的でスピリチュアルな営みを守るために、弁護士に何ができるだろうかと考えるようになった。

私もいつ、がんになり、あるいは別の病気で命の期限を切られるかわからない。今のところ、余命宣告を受けたら、どうせ〇か月後に死ぬなら今死んでも一緒じゃないか、と思いそうな気がしている。ただ、新城先生や西先生のような緩和ケア医に出会えたなら、その時の私の気持ちを生きる方向に盛り上げてくれそうな気がする。

ただ、こうした営みを支えられる医療者ばかりではないこともなんとなくわかる。命の終焉を取り扱う場面だけに、亡くなった瞬間に生じる負の影響、トラブルを恐れ、本人の意思は置いてけぼりにされがちかもしれない。そこを安心して取り組めるようにするにはどうすればいいか。ケアチームが思う存分本人と対話し、ひょっとしたら医学的なセオリーから外れるかもしれない意思が読み取れたとしても、冒険的にその意思に沿うことを後押しできるような「対話」の場を確保できないか。それは、どのような結論になったとしても誰からも責任を問われない環境を作ることであり、そこに弁護士の意義がありそうな、そんな予感はしている。決して、成年後見人として意思決定に直接加わることだけが、人生会議において果たせる弁護士の役割ではないはずだ。そうした対話が保障される環境が作れたら、たぶん、冒頭に紹介したようなALS当事者の生きる権利もおいそれと損なわれることはないように思う。

来年の私が何を考えているかわからないけれど。

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