客体である自分の話
しがない大学生太郎マッタニです。
早くも2020年も7月に突入してしまいました。一大学生であるマッタニは迫りくるレポート試験に無理無理おばけをかましています。
最近のマッタニのTwitterを見てくださっている方は概ね察していただけると思うのですが、マッタニは最近病んでいました。ミスiDが未だ0次選考という初歩中の初歩、まだ何も始まっていない時期において病むの早くね?ってツッコミは待っています。
ただ承認欲求云々で病んでいたのではなくて、「病んではいけない自分」を勝手に押し付けて病んでいました。その結果があの段々クソシュールになっていったネタ動画です。芸人さんって大変だなぁ。そこに味を見いだせたら真の幸運ですね。
『何があったのマッタニメロディ』って話なんですが、この話はきっとまたプチ炎上してしまうので置いておきます。ごめんやんけ。(5chとかじゃないです。)SNS上で金銭を問わず垂れ流しているマッタニの全責任であり、煮ようが焼かれようがいいのですが。
そもそも、今の『エネルギッシュマッタニ』が存在するのは過程がありました。全闇を経て、言うならば孵化をして、人生変わったぜヒャッホイ俺が主役だドドドドだからなのですが。
死にかけてたけど生き永らえたからこそミスiDに出た感もあるのに、それら全闇を自ら「なかったことにしよう」としていました。identityを極めるより寧ろ芸人よりというか、ネタか社会問題に関する発言しか上げちゃダメみたいな枷を課していました。まだ何も振り切れていないのに。
それらの認知的不協和をミスiDを通して低減したくて、要らない過去の存在を肯定したくて生きているのに。
『これはダメだ』ということで今回は「客体である自分」の話をします。エッセイもどきです。
また、今回のnoteを書くにあたって参考になった本を上げときます。
注:アイドル活動等は一切していないマッタニの話です。また、特定の人物への誹謗中傷の意図は全くありません。
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どうしたって女性のマッタニ
マッタニは現在、ヘテロセクシュアルの女性です。一方で、社会などで「弱者」「劣性」として扱われる女性性が存在します。存在しないと仰る方々がいるのは重々承知しています。
体験談でしか話すことがなくて誠に申し訳ないです。体験談を話します。(何度も失礼しますが、特定の人物への嫌味を含んだものではありません。)
あるディスカッションで政界やマスコミにおいての「マンスプレイニング」の話をしていて、
マンスプレイニング(manplaining):女性を「無知である」と見下したうえで一方的に自らの意見を主張・または何かを解説する行為。man+explainingの造語
誰かが発したのは、『このディスカッションの場においても、潜在的にマンスプレイニングが発生しているのではないか。』という言葉でした。
発言を一切行わない女子たちに対して『俺らが喋りすぎてるから必然的に聞き役にさせてるのかもしれない。ごめん。』的なニュアンスを含んだものでありました。
マッタニは ひいん でした。
マッタニはそのディスカッションにおいて、積極的に発言をしていました。議論を楽しんでいました。また、議論の場において、誰も話し出さない中、一番最初に発言していた程でした。(マッタニが一番頑張って~真面目で~みたいな意図は皆無です。)
つまり、実際のマッタニを度外視して、彼らが示唆する「身近に存在しているマンスプレイニングを受けている女性」として、カテゴライズされてしまったのでした。
(別のたまに発言をしている女の子が『そんなことない』と否定してその場は終えました。)
彼らの話の意図は、『政界やマスコミ業界だけではなく、身近にもあるんじゃない。』であったことは察せますし、割合としての話をしたかったのもわかります。しかし、マッタニはなんだか翌日翌々日、そして現在にも持ち越すくらいショックだったのでした。
マッタニは、日々として「劣性と認知される女性性」というものに嫌気が差し、脱出したいと考えています。そのために勉強もするし、議論の場においては自分の意見を主張もします。後述する、「恋人関係を伴わない性行為」でも、自傷的ニュアンスとは別に自らに「選択権」があることを主張します。
でもマッタニはどうしたって女性なので、性別でカテゴライズするとすれば、誰かがつけた「劣性としての女性性」に分けられてしまいます。マッタニがいくらそれに抗おうとしても。特例なんて措置は取られずに。だってマッタニはどうしたって女性だから。
この「マッタニはどうしたって女性」問題の解決策としてマッタニはよく『人類が全員ポケモンのメタモン(性別を持たないポケモン)になればいいのに。』と思います。
しかし、それはマッタニ自身が自らの女性性を「劣性」として自認し、それでいて「男性化」を図っているのかもしれません。時として言う『女やめたい。』こそ自体が「女性性を更に追い込んでいる」のだと気づきました。
次に、「マンタラプション」の話をします。
マンタラプション(manterruption):男性が女性の発言を遮って主張をする行為。man+interruptionの造語。
ジェンダーの話をする際、必ず出てくるのが「もはやミサンドリー(男性嫌悪)のフェミニスト」と「女性優遇=男性排除」という視点です。所謂 男女の性差において優性である男性が加害者のように扱われ、劣性である女性が被害者と扱われること。また、その「弱者救済措置」の両方が逆差別であることの話です。
マッタニもフェミニズムを主張するに当たり、そのような「配慮」は大事だと自負します。「オタク文化」は傷つけてはならないし、差別の排除を文化の抑圧に繋げてしまうことは「最悪の結末」だと思います。
しかし一方で、その話をされると何も言えなくなります。なりません?なります。女性の地位を上げるために形として優遇策を取ったならば、それは男性への排除策であり、「無能な女性の誤った配置」を危惧する道筋ができあがります。そこにいる女性は無能だという前提がとりあえず置かれます。
マッタニはそうなる度に『確かにそうよな』と思っていました。でもなんか一周回ってそれマンタラプションじゃね?と考える今日この頃であります。
男尊女卑に抵抗した結果としてそこに女尊男卑があるとするならば、マッタニはその「優性である女性だから」何も言えなくなるのです。劣性とされるしんどさがわかるから。
そもそもフェミニズムにおける男女とは優劣を争うものではないのですが、二分子は対立せざるを得ない宿命か何かなのでしょうか。
最後として、最近よく見る「フェミニストがメイクやオシャレをするのは矛盾だ。」問題です。
SNS上で顕著な例としては#KuToo運動などが挙げられますが、それも そもそも「ジェンダー規範として、女性だけに社会的に不当とされる性差別としてのヒール靴の強要」に対して声を挙げたものです。
しかし、フェミニストがメイクやオシャレをすること、所謂フェミニンな外見を装うことは矛盾だとされます。自ら抵抗する「ジェンダー規範」に従属しているのではないか、と。しかし、その指摘自体にフェミニストたちの主体性は度外視されます。強要に対しての抵抗が、客観的にしか判断されません。
しかし、それら女性性を表すものの排除が性差別撤廃になるのでしょうか。女性性の向上ではなく、女性性の削除による「差別解消」は「弾圧」です。
でも結局は、マッタニはどうしたって女性なので女性目線でしか話せません。前述した「過度のフェミニズムの否定」も、「名誉男性」と見られてしまうのではないかと思います。
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客体であるマッタニ
その「どうしたって女性のマッタニ」を踏まえた上での話として客体であるマッタニの話をします。
第一としては前述した「女性」としてカテゴライズされる客体のマッタニ、フェミニストであることに対して主体性を無視した義務もどきを課せられるマッタニがいます。
第二に、客体マッタニはセのフレの関係に現れます。つまり「恋人関係を伴わない性行為」に対しての話です。
二個前の記事で「性的にしか扱われなかった反動(復讐)として出会い系に走ったマッタニ」を書いたのですが、(復讐より自傷寄りかも) 「穴モテ」はいても「竿モテ」がいないのは何故なのでしょうか。
それらに該当する方達はこのnoteに辿り着かないであろうので書きますが、なぜかマッタニは「男女交際を提案しさえすればYESと頷くであろう。」と思われていました。超ライトな関係でよかったし、マジで恋心的なものを匂わせた覚えはないのにどうして。所謂「ヤリモク」を前提として自らの選択権を主張していたのですが、うーん。
そのような性的関係がなくとも、急に長らく面識のなかった相手から急にDMが来て、あたかも「マッタニも俺に会いたいよな」という雰囲気で話を進められます。マッタニそんなちょろそうですか??ひいん。全力回避コマンド連打です。
これに通じるかもしれない話として、これらに遭遇する以前に「愛されるためのマッタニ」としてのマッタニは自らを客体化しており、そこに自意識を持とうとしませんでした。実例を過去のマッタニは体現しておりました。おっと。
しかし、いつまでもそのような猫かぶりは続くことはありません。自意識が爆発してはマッタニは「さっきまでいい子だったのに急変したメンヘラ」と位置付けられてはの繰り返しです。でした。
第三に、病みに現れます。
二個前の記事の全闇が云々で「不幸自慢」なり言われます。し、所謂「寝てない自慢」と同等の存在として捉えるまでの思考回路も想像できます。
経験したことのないものに執拗な同情をかまされるのは正直マッタニも気持ち悪いの域に入るんですが、その病みをマッタニ自身としても客体視し、ネタに走ります。
周りの目を気にして、マッタニからマッタニの病みを分離し、客体化して否定します。その病みは結局マッタニの一部であり、結局は主体的にしか感じることはできないのに。
何を言うにしても反論や誹謗中傷が自発的に思い浮かんでしまうのは、「出る杭は打たれる」の教育の賜物でしょうか。
これを書いて『また病みを個性にしようとしてるメンヘラがいるw』という誹謗中傷もどきが目に浮かびます。昇華したくて書いてるんやで。
お花畑で生きる人類になりたいです。
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主体性を求めて三千里
そんなこんなで最近になってこれらを自覚し、主体性を求めて三千里していますマッタニです。
文末でミスiDの話をミスiDを落ちるまでするんかお前は。って感じなんですけど、
ミスiDで、気づかなくてよかった「大人」になってしまったマッタニの中で『個人⊂性別』じゃなくて『個人⊃性別』として立ちたいです。
三千里長いわ~ひいん。
おわり。
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