「見えない」への思考


しがない大学生太郎マッタニです。

ミスiDの0次選考でのSNSを含めた審査は本日19日付で終了なさるという話を耳にし、「#マッタニの1日1ボケかます」「#マッタニの1日1すきぴコンテンツ」なども大体は本日で終了します。ひいん。

もしかしたらカメラテストに進めるかもしれないし、もしかしたら進めないかもしれません。

ミスiD期間というのは私にとって、基本相手方の言うことを聞いておけば上手くいくという思想を持ち続け、抑圧された状況に慣れたものの、耐え切れず時として爆発してしまうような毎日を過ごしていたマッタニにとって、

あらゆる属性や偏見、イメージを振り払って自己を主張する期間であります。

己の人生経験や思考、ネタ線等を公に晒す期間でありました。また、一方でその期間は他エントリー者の方々との競い合いではなく、自己分析を永遠繰り広げる期間でした。企業へのESにも書けないような自己分析や自分の環境に対しての熟慮を繰り広げ、自分の汚点とすら思えるような欠陥部分をひたすら凝視し続けました。そのような日々に意味があったのかどうかは審査員の方々が決めることです、というのはマッタニの最後の逃げになるでしょうか。


さて、マッタニはミスiDの書類作成にあたり、『アフターコロナの世界に期待することは何ですか?』の質問に『見えないところに思考を巡らせることのできる人類の進化』と書きました。

多くの悲しいニュースが止まない社会で、我々は何を考え、何を求めなければならないのでしょうか。


新型コロナウイルス感染拡大防止に備え、春先では政府より自粛要請が発せられました。学校はオンライン授業に取り代わり、在宅ワークの導入が各企業で行われました。飲食業界や観光業界は経済的に大ダメージを受け、経済格差は拡大の一手を辿り続けています。財や富の再配分は限界が知られ、最低ラインの救済に早急な政策が求められる日々です。資本主義故の議論もありますが。

東京都内の感染者は、検査が広範囲に行われるようになったことも理由とされかねますが、日々として数は増えています。現在は未だ第一波の延長であるのか、はたまた第二波の到来であるのかは個人の感じ方次第ではないでしょうか。

そうして未だ終わりの見えない新型コロナウイルスの脅威に晒される日々で、皆さんの日常における変化はいかがなものでありましたか。

社会はどう変容しているとお考えですか。


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自粛が生み出した閉鎖的空間の悪化


第一に、自粛期間は閉鎖的空間を悪化させたと思います。

経済的圧迫や行動範囲の制限で、コロナ疲れによるストレスは連鎖的にも蔓延したと言えます。マッタニ個人の意見でもあるので、意を違えるであろう方がいることも考慮されますが、そもそも近代社会は「」を従来の家父長制を下に、更なる閉鎖的コミュニティに仕立て上げました。経済的利益を第一とした近代社会は社会保障なるものの一端を家庭内に押し付け、「血縁関係の義理」「人情」「親孝行」などの言葉を巧みに操り、あらゆる責任を家庭内に押し込めました。と、マッタニは考えています。

日本家庭のスタンダードが幸せな健全家庭であり、虐待等の事件にならない限り、家庭内の不和は家族構成員にしか基本的には感じられません。

人類は生誕してから幼少期の間は、家族というコミュニティにしか属しません。その後、学校に通い、外の世界を知ります。外出して、他人とコミュニケーションを直に取ります。そうして、社会に対して自分が存在することを知ります。

自粛期間は、そのような外との繋がりが遮断されました。


また、学校教育おける性教育の不備が実感として多くの方に認知されたと思います。

これには、性というワード自体が公に置いてタブー視されるような社会の風潮が表れていると思います。このような性の知識不備は何を生むと思いますか。思春期という人格形成期に何を及ぼすでしょうか。健全な性教育とは何でしょうか。

そもそも学校自体が閉鎖的コミュニティであるとすら思います。

性教育というのは雨の日の体育の時間に1コマ2コマぐらいしかやらなかった記憶しかありません。情報の渦であるネット社会で、若者のメディアリテラシーの欠如が原因なのでしょうか。避妊具の不必要性を神話とするようなレベルの話をしています。


コロナウイルス患者に対しての地域内での指さされはどうでしょうか。

また、京都産業大学で陽性者が出た際の誹謗中傷も未だ記憶に新しいのではないでしょうか。

新型コロナウイルスの存在も感染も世間的に知られていなかったのに対し、「海外に行ったのが悪い」という評価はいかがなものでしょうか。

某YouTuberの愚行とは程遠いものです。某一般人の愚行諸々とは必ず分けて考えねばなりません。「自粛期間終わったやろ」の言葉と共に危機管理の衰退を促すものと分けねばなりません

もうここまで来たならば日本の国自体が閉鎖的コミュニティのように感じますが、集団の中での一個人を特定して集団で叩く「盛り上がり」に由来する「正義」ほど恐ろしいものはありません。

また、その「正義」は閉鎖的コミュニティ内では恐ろしいほどに力を持ち、「正義」がマジョリティになる瞬間が永遠に懸念されます。


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SNSにおける無知の横暴、無知に対する横暴


新型コロナウイルス感染拡大防止に際しての自粛期間により、「オンライン飲み会」なども最早流行とすらなりましたが、とにかく人に会わないことに比例して、SNSの利用時間が増えた方が多いと思います。


先に、無知の横暴について記述します。

社会学部に所属していると、度々「メディアリテラシーを養うメディア教育の必要性」を学ぶ機会が多いのですが、メディアリテラシーを養うべきなのは果たして成長過程の子どもたちのみでしょうか。

フェミニズム運動へのアンチとされる方々にも多く見られるのですが、当事者の背景や事件の概要 詳説、女性が感じる男尊女卑社会に対して一切の思考を巡らせずに暴論とも言えるものをかましまくっている方は存在します。

男女雇用機会均等法が出されたから女性差別は完全に消えたのでしょうか。

女性に参政権が与えられたから女性差別は終焉を迎えたのでしょうか。

そもそも過去における「第2波フェミニズム」は、「第1波フェミニズム」が獲得した選挙権が女性の日常生活には何ら良い影響を及ぼさなかったことに声が上がって始まったものです。


これに類するものとしての#BlackLivesMatterがあります。

経済的格差による社会不安から黒人が暴動を起こしたという差別の隠蔽とも言えるような報道は、別の早朝ニュースで私自身も耳にしました。

人類の長い歴史上での差別は時として潜在的に、最早 社会的通念として存在し、条例をポンと出したから消えるものではありません。と、マッタニは考えています。

集団を個人個人として認識するのは大変困難なことですが、属性によって一まとめに仕立て上げ、無知の横暴が、匿名性に守られて行われました。なぜ横暴という言葉を使用するかというと、その個人個人の無知が集団となっているからです。集団というマジョリティは勢力を伴います。からのマジョリティとなった人間は自分が無知であることには気づきません。無知という発想がありません、同調は自信になります

飲食店の再開に関しても多くの議論が繰り広げなされました。

また、「自粛警察」なる方も未だ健在なのではないでしょうか。個人個人の経済的背景や、心理的背景を考慮せずに論争は留まることを知りません。「コロナ鬱」による精神的不健康はあります。一方で、マスクは私個人としても未だ必要であると思いますが、マスクを忘れるなり紛失するなりしてしまったときの罪悪感は人によっては凄まじく、「ごめんなさい」と唱え続けてハンカチで口を抑えながらレジに並ぶ方がいます。


問題はその無知に対しての危機感を一切持たず、勢いで言説を上げ続け、他の意見を抑圧することであります。

無知であることに対して罪はありません。そこから知るか否かです。根拠のない持論を唱え続けることに危険性があります。集団性に「盛り上がって」しまい、「正義」を確固として持つことです。(事によっては、それくらい知っておいてくれよ~と思うことはたまにありますががが)


無知に対する横暴について話します。全くの無知ではなく、何らかの知識不足について執拗なバッシング行為の話と言った方が適切でしょうか。

近年においてTwitterのハッシュタグを利用した社会運動は頻繁に見たと思いますが、「#検察庁法改正案に抗議します。」のツイートはトレンドにも上がり、これまた記憶に新しいのではないでしょうか。

多くの有名人が賛同の声を挙げたことに特徴は見られます。有名人に限った話ではないのですが、知識の欠如や誤認から人格否定までに及ぶ勢いは恐ろしいです。恐ろしいが多発しています。

未だ知識不足である面が多い小童者のマッタニが言えることではないのですが、無知は罪ではありません。知識は補っていくものです。近年におけるTwitterのツイートは、呟きではなく声明文として異様に立てられるのは、その方の持つ影響力の責任の話なのでしょうか。

多種多様、事によるで終わっていいのでしょうか。

日本における集団性への過度の傾倒の遺伝子的な話は、脳科学においても明らかになっているので、以下の書物を置いておきます。中野信子さん著『空気を読む脳』です。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000310633


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「知ること」


「知ること」は人生とその人個人を豊かにします。マッタニの尊敬する先生のお言葉で、その方はもう仰ったこと自体を忘れているかもしれませんが、ここnoteにも記させていただきます。

知ることは目の前にいる人を傷つけないための作法

この言葉は、マッタニの頭の中心に置かれるようになりました。


また、以下のCMをご覧いただきたいです。

私のTwitterのTLで別の方がリツイートなさったものであり、私もつい先日知ったものですが、東海テレビによるドキュメンタリーCMです。

「見えない」何かは世界に溢れています。それらの中で、新型コロナウイルスによって一部は可視化され、一部は不可視のままであります。

「見えない」ものは常に露呈すべきなのでしょうか。それらは義務であるのでしょうか。我々個人と社会に必要なのは、「知ること」であり、「見えない」に対して一度思考を巡らせることなのではないでしょうか。

忠告として、虐待の加害者の心情を被害者が認識し、理解しろというものではありません。自分の心身の健康を大事にしてください。「知ること」は義務ではありません。

作法は作法として機能すべき時に身に着けるものです。

紆余曲折した記事かつ曖昧な表現で申し訳ありませんが、このご時世だからこそ一歩立ち止まって何かを考える時間に意味はあると思うのです。極端な思考に危険性を感じてほしい。「知らない」が根拠にある過剰表現の印象操作は確かに存在する。

「正義」はそう簡単に持つものではない。


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マッタニのこれらは自傷なのか


急に話変わるやんなんですけど、ここまで読んだなら読んでや~ひいんの気持ちで書きます。

ミスiDのことをマッタニは全く知らなかったのですけども、「メンヘラの保健室」と言われているらしいです。メンヘラという言葉の安易な使用はマッタニのげきおこポイントなのですが。

「保健室」という「駆け込み寺」的発想にも頷くくらい、ミスiDにエントリーしている方々の人生に対しての切迫感は他のコンテストに類を見ないとマッタニ自身感じました。マッタニ自身、個人として見てほしい、認められたい、主体として生きたいという思いがあります。過去に消えたかった自分を踏み台にしてやりたいわ、それらにも意味はあったんだという認知的不協和を曲に吐くのではなく、もっとちゃんと成し遂げたいわ。と思っています。


果たしてマッタニのこれらは自傷行為でしょうか。


過去にとらわれ続けることは愚行でしょうか。

忘れられるなら忘れて、お花畑で生きていたいってマッタニ自身も思います。本当は知りたくなんてなかった。要らないで済ませられるなら済ませたかった。夢はずっと見ていたかった。

人間は前に進む生き物です。ポジティブな感情や経験は、その前方向に共に進むものです。一方で、ネガティブなそれらは後方に進みます。だから人はネガティブなものに影響を受けやすいという説です。三島由紀夫さんの考えです。マイナスは強い。

忘却は難しい。これがマッタニのメンタルの弱さ故とするとしても、仕方ないとしても、己との闘いであることに変わりはありません。


一方で、厨二病的発想から不幸を切望する方もいます。


「メンヘラ」はステータスではない。「尖ってる」は誉め言葉ではない。「可哀想」は可愛いではない。「死にたい」は合言葉ではない。


常に頭の中に自分への批判や反論が思い浮かぶマッタニですが、あらゆる属性や他人からのイメージを凌駕した個人の存在は可能なのでしょうか。

マッタニのこのミスiDエントリーを通した行為全ては恥ずかしい自傷なのでしょうか。

これらを通して、マッタニのあれやこれらは見えましたか。

社会で多発する「見えない」への思考は誰かを救うのでしょうか、もしかしたら傷つけるかもしれません。しかし 確かに必要性はあるはずです。他人との共生社会を生きるために。

人で人は変わらないかもしれないけれど、人で社会は変わり、社会は人を変えます。

個人間は狭く閉鎖的になりがちですが、社会はどこまでも広いはずです。


追記として

人生において応援してほしいときに個人として、マッタニのためだけに応援してもらった経験がなく、応援してほしいなんて言葉も言えないような人間だったのですが、応援して頂けてうれしかったです。わーい。今後ともよろしくお願いいたします。


記事のお尻が見当たりません。おわり。


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