動物と文学コレクション(『江古田文学』97号)から

ジョージ・オーウェル 開高健(訳) 『動物農場』

(ちくま文庫 原著1945年)

▼欲望の果てに

「日本を、取り戻す。」という経済成長戦略の結果がもたらしたのは富の集中と格差の拡大。しかし持つものが持たざるものから掠めとるという構図は、そのひずみが増し、歪みが大きくなるにつれ破局を迎える。本作はこれまで不当にその労働力や生産物を搾取され続けてきた動物(豚や馬などの家畜)たちが「荘園農場」から人間を排除し、動物の手によって「動物農場」を運営することを試みる顛末と、狡猾な為政者による独裁体制によって当初の理想が崩壊していく過程を、当時の社会主義独裁国家への批判をこめて皮肉たっぷりに描く。
 地球上から社会主義国家がほぼ消滅した現在においてさえこの作品が少しも古びることがないのは、都合よく読み替えられる「動物主義の七誡」や、「四本足よし、二本足だめ」というかけ声によって“個”の主義主張を圧殺し、民意形成を支配するさまが、全体主義や同調圧力が蔓延する現在の日本社会そのものだから。オーウェルの鳴らす警鐘が切実さを持って私たちに迫る。


吉村昭 『羆嵐』

(新潮社 1977年)

▼ジャーナリスティックな視点で惨劇を描く


 未曾有の大災害となった東日本大震災では、強い揺れと巨大津波により東北地方沿岸部は壊滅的な被害を受け、二万人以上の死者・行方不明者を出した。さらに「想定外」の事態によって発生した福島第一原子力発電所事故は未だに収束の目処が立たない。マグニチュード九の強い揺れや数十メートルの高さの大津波は、しかし本当に「想定外」だったのか? 一九一五(大正四)年、北海道三毛別で起きた日本獣害史上最大の惨事とされる三毛別羆事件を扱った本作は、「三陸海岸大津波」などの記録文学でられる吉村昭による綿密な資料調査と関係者に対する聞き取りをもとに、事件の一部始終が詳らかに語られる。羆によって損壊された七名の犠牲者の遺体や凄惨な事件現場を目にした村人たちの恐怖、いつまた襲ってくるともしれない羆への不安は計り知れない。過疎や離農で里山は荒廃し、人間と羆(熊)の生活圏が重なりつつある現在、震災や津波と同様に、この事件が決して「想定外」などではないことを過去は教えてくれる。


熊谷達也 『邂逅の森』

(文藝春秋 2004年)

▼ひとりのマタギと山の神との邂逅


 松橋富治というひとりのマタギの人生を描いた本作は、史上初の山本周五郎賞、直木賞ダブル受賞作であり、その圧倒的な筆致は読者にページを捲る手を止めさせない。クマやアオシシを撃ち、その肉や毛皮によって生活の糧を得るマタギにとって、山は神聖な猟場。「人間の性である自身の欲深さを封じ込め、意識や感覚をできうる限り獣の領域に近づける」ため、山入りの前のマタギは水垢離りや女断ち、山歩きをして身を清め、嫉妬深い醜女とされる山の神の赦しを請う。しかし落としきれない世俗の穢れは、犯してはならない山の掟や制約との間に軋轢を生む。村の名士の娘との姦通から富治はマタギ仕事を追われ炭鉱夫となるのだが、マタギの血によって再び山に戻されると、ヌシと呼ばれる大グマに宿った山の神との命をかけた勝負にのぞむ。この死闘は富治のマタギ人生の中で抱き続けてきた山の神の存在そのものに対する疑念、その「真実」を知るための壮絶なたたかいでもあって、勝敗ではない勝負の末に富治が「真実」を見つけるラストは実に感動的だ。


川上弘美 『神様/神様2011』


(講談社 2011年)

▼震災によってアップデートされる物語


 主人公のわたしと三軒隣に引越してきた「くま」が河原へとハイキングに出かける川上弘美のデビュー作「神様」はどこか昔話めいた掌編。「くま」は魚を捌いて干物にしてくれるし、子どもにふざけて腹をぶたれても穏やかにそれをかわす。しかしこの「くま」のおおらかさや気遣いは、お伽噺の「愛くるしい熊」という紋切り型の存在ゆえではなく、わが物顔に振る舞う人間との距離を測りかねるからであって、だからのどかさとは裏腹の不穏な空気が作品全体を覆う。そして「あのこと」がおこったあとの世界を描く「神様2011」では、防護服や累積被曝量といった言葉によって「くま」の存在が変質する。「やおよろずの神様を、矩のりを超えて人間が利用した時に、昔話ではいったいどういうことが起こるのか」という川上の試みによって、「くま」=「自然」と人間との関係を描く寓話は見事にアップデートされ、原発事故後の現実離れした現実、ディストピアの出現が鮮やかに描き出される。
※初出『江古田文学』97号

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