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お酒を飲みながら読んで欲しい話

この先を読む前に、なんでもいいから自分の好きなお酒をグラスに注ぎ、それを飲みながら読んで欲しい。


つい先日、去年の夏以来、約1年ぶりに高校時代の友人達と会い、呑んだ。楽しい夜だった。このために五連勤を耐え忍んだ甲斐があった。1年も会っていなかったのか、と思った。5年前までは毎日昼休みになると食堂に集合し、一緒に弁当を食べていたのに。と言うか高3ってもう5年も前なのか。時の流れは恐ろしいな。5年前なんてコロナのコの字すら誰も知らないし、そもそも平成だ。世界はこの5年で大きく変化したというのに、自分は上手く生きるための狡さを少し覚え、嘘が上手になっただけだ。自分に対しても、他人に対しても。まるで何も成長してない。そんな時間の流れとは裏腹に、1年ぶりに会ったような感覚は全くなく、昨日も会っていたかのように話せたことが嬉しかったし、そんな関係の人がいること自体が喜ばしいことだと感じた。とは言え実際には1年が経っている訳だから、各々に積もる話がある。昨日も会っていたかのようなテンションで、1年分の積もる話に花を咲かせた。4月の吉野山の桜ぐらい咲いていた。

「俺らも大人になったな」なんて会話が大半を占めていた。体力が著しく低下した話、涙腺が緩くなった話、他人を慮ることができるようになった話などを聞きながら、共感の意を込めて温くなったハイボールを流し込んだ。それぞれ趣味も違えば肩書きも全く違うが、何故か話が合う(と自分は思っている)。人間としての基本的な思想や価値観が、数学で言うところの「AかつB」の「かつ」にあたる場所、すなわち共通部分にあるのではないかと思う。枝先まで同じであるべきとまでは言わないが、根っこぐらいは同じでなければ枝先の違いを受け入れられないよな、と思う。あとは単純に優しい。こんな自分にだって優しくしてくれる。仕事終わりに合流した自分のためにプレモルを冷やしておく、なんて配慮が出来る人達だから好きだ。結局のところ、「良い奴」じゃないと長くは付き合っていけない。気遣いが出来るというか。これは完全に仕事を始めてから感じたことだが、いわゆる出世とは仕事の能力よりも気遣いの能力、すなわち「良い奴」かどうかによる部分のほうが大きいと思う。どれだけ仕事が出来たとしても、不誠実な人とは一緒に仕事したくないし、多少不器用なところがあったとしても、誠実に向き合ってくれる人なら共に仕事をしたいと思うだろう。基本的に誰しもの代わりなんてごまんといる訳で、その中で誰かが選ばれる最終的な要因はそういう部分なんだと思う。どれほど能力が高くても、ピンチの時に裏切ったり逃げ出したりする人には仕事を任せられない。と言うか実際にそうするかどうかより、「裏切りそう」や「逃げ出しそう」と思わせた時点で駄目なんだと思う。「『上司のグラスが空いていたら酒を注げ』なんてのは現代においてパワハラだ」という意見もまあ分からなくはない。でもそこまではいかなくとも、空いたグラスを見て「次は何飲む?」って聞いてくれる友達と一緒に飲みたくはないだろうか。綺麗事じゃなく、全ての仕事は他人を喜ばせるためにあるのだから、そういう感覚ってかなり重要だ。

時間が経つにつれて会わなくなる人も多いからこそ、時間が経てど会い続けたいと思わせてくれる人たちのことは大切にしないとな、と思う。人間関係とは自然と似ている。自然界において弱い者が強い者に淘汰されるのと同じように、会う必要がないと判断された者には誰も時間を割いてなんてくれず、淘汰されていく。誰しもが誰かにとっての強者であり、また別の誰かにとっての弱者だ。この人は自分にとっての強者だ、とお互いが思っている内は良好で強固な関係を築くことができるが、そこに齟齬が生じた瞬間からその関係は破綻に近づく。それが男女なら尚更だ。自分が会い続けたいと思える人にとっての「会い続けたいと思える人」でありたい。そのためには感謝をきちんと言葉や行動で示さなくちゃな、と思う。みんなの優しさに甘えて、与えてもらったものを返せてなさすぎる。いつまでも恥ずかしがってクールぶってる場合じゃないよな。腹を抱えて笑える話も真剣に語らうこともできる関係値である、ごく少数の人たちをもっと大切にしなければいけないし、そんな人たちが自分の頑張る原動力になっているのと同じように、その人たちにとっての自分もそうでありたい。だから、感謝をきちんと言葉にすることが24歳になるまでの目標だな。23歳になるまでのあと2週間ではきっと変われないだろうから。人は、自分のことを好いてくれる人のことを好きになるものだ。男なら共感してくれる人は多いと思うが、「こいつ絶対俺のこと好きやん!」と思った途端にその相手のことが気になり出すのと同じような感じ。まあそれってほとんどがただの勘違いなんだけど。でも理屈はそういうことだから、好きであることやまた会いたいと思っていることをきちんと伝えなきゃいけない。この歳にもなると、「また会おうや」ときちんと言葉にしなければそう簡単に会うことはできない。俺が別れ際に「また会おうや」と言ったら、「おう、また会おうや」と返して欲しい。欲を言えば、「また〇〇(時間)に××(場所)で会おうや」と返して欲しい。ほんとにまた会いたいと思ってくれているなら、だけど。

ここ最近は時間の不可逆性について憂いてばかりいたけれど、巻き戻せず、先にも進めないからこそ積み重ねた時に強大な力を発揮するのかもしれない。帰り際、「次会うのは年末かな」と話した時、もう気軽にすぐ会える年齢ではなくなってしまったことに寂しさを感じた。それと同時に、少し大人になった気もした。「おう、また年末に会おうや」と返してくれた時、少なくとも年末までは死ねないな、と思った。一生こうやって寿命を伸ばして生きていきたい。


あれ?もうグラスが空っぽだね。次は何飲む?

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