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臆病な自尊心と尊大な羞恥心

お笑いが好き。野球が好き。競馬が好き。角ハイボールが好き。煙草が好き。ラーメンが好き。寿司が好き。麻雀が好き。カラオケが好き。温泉が好き。風呂上がりに飲むカフェオレが好き。バック・トゥ・ザ・フューチャーが好き。一人旅が好き。旅行の行き道が好き。夜中のサービスエリアが好き。普段髪を下ろしている女の子のポニーテールが好き。猫が好き。back numberが好き。深夜ラジオが好き。受験が好き。夏の熱気と冬の寂しさが混ざった秋が好き。シンプルなデザインが好き。抹茶のスイーツが好き。京都の街並みが好き。大阪の空気が好き。夜が好き。夕方の各駅停車が好き。晴れの日が好き。旅館で一人だけ早起きした時間が好き。リーガル・ハイが好き。インスタでスイーツの写真に逃げずにちゃんと露出してくれるグラビアアイドルが好き。文化祭の準備が好き。ガリガリ君の梨味が好き。ファミマの明太子マヨネーズおにぎりが好き。セブイレのメープル&マーガリンパンケーキが好き。瓶のコーラが好き。半熟卵を割る瞬間が好き。天満で昼から飲むのが好き。インスタでペットの写真に逃げずにちゃんと露出してくれるAV女優が好き。普段ポニーテールの女の子が髪を下ろす瞬間が好き。自分のことを好いてくれる人が好き。話すことが好き。言葉が好き。考えることが好き。頼られることが好き。褒められることが好き。笑うことが好き。笑わせることが好き。

最近自分が何なのかよく分からなくなって、とりあえず好きなものを羅列してみたけれどやっぱりよく分からないな。悪い意味で自分に期待を裏切られて、自分ってこんな人間だったっけ?と自問自答することが多すぎる。「【最新版】俺の取扱説明書」を今すぐ誰か作ってくれよ。巷ではこういう時に占い師にでも頼るのかもしれないが、いかんせん自分は占いアンチなので自己解決するしかない。いやほんとに解決できるとは思っていないが、自分くらいは自分がどういう人間かを分かっていないと寂しくないか?自分くらいは自分の理解者でいてあげたいし。だからこれは「俺はこういう人間だ」と周囲に宣言するためのものではなく、書きながら少しでも自分について知れたらいいな、ぐらいのものだ。ビッグダディじゃないんだから。ここまで読んでくれた人には申し訳ないが、この先を熱心に読む必要はないし、なんならここで読むのをやめてくれても全然大丈夫。とりあえず、いくつかのキーワードから自分という人間を紐解いていこうと思う。

キーワード① : 面白いことが好き
これはnoteの中にも度々登場しているし、なんならこの文章の冒頭にも書いている。それぐらい自分の中の大部分を占めていると思うし、生きる上での軸に近いかもしれない。少なくともこれまでの人生では。面白いことを提供するのもされるのも好きだし、そのためには少々の犠牲なら許容できる。いつからこうなったのかは正確には分からないが、小学2年生の頃には好きな子を笑わせるために必死で面白いことを言おうとしていたし、2006年のM-1グランプリの記憶は鮮明に残っている。「かっこいい」と言われるより「おもろい」と言われる方が100倍嬉しいし、「かっこ悪い」と言われてもあまり気にならないけど「おもんない」と言われると酷く傷付く。「かっこよさ」はそこまで意識していないけど、「おもろさ」はゴリゴリ意識しているからだと思う。なぜこんなに面白いと思われたいのかは自分でもよく分からない。根本的に面白い事や人が好きだから、としか言いようがない。面白い事が好きだから、みんなで「おもろいことやろうぜ」ってなった時に自分がその輪に入っていないことが耐えられない。そのために「おもろい奴」で居続けようと必死なのかもしれない。こんなことばかりしていると、笑いに対して厳しいだとかストイックだとか言われることがあるが、まあそうなんだと思う。他の人の話を聞いていて、「こうすればもっとウケるのに、もったいない」と思うことが結構あるし、自分に対しても同じ内容で反省することはもっとある。多くの人は普通、そんなことをしないことを知ったときは驚いた。じゃあみんなはお風呂に入っている時やベッドに入ってから寝るまでの間に何を考えているんだ?もし自分からそれを奪われたら1日の中にかなりの虚無な時間が生まれてしまう。

「お笑い」と聞くと、「見るもの」というイメージが強いが、「するもの」でもあると思う。それは一般人である自分たちにとってもそう。例えば、「この間こんなことがあってさ…」なんていう笑い話も「お笑い」の一種だろう。そんなお笑いの素晴らしい点はマイナスをプラスに変える力にあると思う。恥をかいた経験や失敗談、自分のコンプレックスといったマイナスですらもお笑いの手にかかればプラスに姿を変え、武器となる。近年はコンプライアンス意識の強化によりあまり見かけなくなったが、いわゆるブサイク芸人などはその代表例と言えるだろう。芸人の立場からすると、たとえそれが自分のコンプレックスであってもイジってもらえると「おいしい」訳で、「やめろ!」が本当に嫌がっている訳ではないことなんて明らかなのだから、そんなに目くじら立てて排斥しなくてもいいのに、と思う。まあたしかに、「子供が真似したらどうするんだ」という意見も分かる。近年では芸人の地位が向上し、報道番組にさえも芸人がコメンテーターとして出演する時代だから難しい問題だなとは思うけど。それでもやっぱり子供が真似しないように躾けるのは親の役割だし、そもそも普段出来ないことをやるのがテレビじゃないのか?現実世界とテレビの世界の線引きが曖昧になってしまっている。

とにかく、いつからか自分は笑いが持つマイナスをプラスに変える力に魅了されてしまったのだ。時間の経過によってマイナスがゼロになることはあってもプラスに転じることはないから。こんな恥も外聞もない文章を書いているという未来の黒歴史だっていつか必ず笑い話に変えてやるのさ。


キーワード② : 全員から好かれたい
昔から、その場を俯瞰で観察し、自分を客観視する能力は高かったと思う。関西人は幼少期からボケとツッコミに分かれる、なんて言うが、自分が完全にツッコミ側の人間だったのもそのせいだろう。その後、周囲の目線が気になる多感な時期、いわゆる思春期を経て、この俯瞰力を「自分が今どう見られているか」を確認するために使用する癖がついてしまった。もしかすると今もまだ思春期真っ只中なのかもしれない。自分の中の客観がブクブク膨張し、主観が押し潰されていく。いつの間にか、自分の見られ方ばかりを気にして周りに合わせてしまう。でも「コイツ周りに合わせてるな」と思われたくはないから、また別の意見を言ってみたりもする。強い自分を持っていないから、コミュニティによってキャラが全然違う。久しぶりに再会したコミュニティでは自分の立ち位置を探し当てるまでに時間がかかったりすることもある。過度な客観視も厄介なもんだよ。ベタなところで言うと、グループLINEが自分の発言で終わるのが嫌いだし、電車で若い女性の隣に座ることも躊躇ってしまう。逆に、自分の隣が空いているのに立っている人がいることにすら不安になってしまう。それもこれも全部、誰からも嫌われたくない、なんなら好かれたいと思っているからなんだよな。「気を遣っている」とかではなくて単に「ビビっている」だけだ。いつからこんな臆病な人間になったのだろう。特にトラウマがあるとかいうわけでもないのに。別に人に好かれたいという気持ちは当然のものだし許容できるのだが、「全員から」ってところが肝心。相手が誰であれ、マイナスな評価を受けていると知ると落ち込む。全員からの一票が欲しくて、「この人からの票は別にいらないな」なんて割り切ることができない。とても簡単に言うと自分に自信がないんだろうなと思う。自分に自信があればありのままの自分でいれるだろうし、それが受け入れられると思えるはずだから。

ここまで書いていて気付いたが、自分に彼女がいないことが諸悪の根源なのかもしれない。つまり、「この人にだけは好かれたい!」と思えるような圧倒的に好きな人がいないから、全員から好かれたいと思ってしまうのかもしれない、ってことだ。もし仮にそう思えるような人がいればその人だけに好かれるような行動をとるようになるのだろう。そしてその人と付き合えたとして、その人からお褒めの言葉を頂戴しようもんならさすがの自分でも自信が持てるようになるかもしれない。なんだ、彼女が出来るって良い事づくめじゃないか。さすがにそろそろ彼女が欲しいと思っていた頃だし。ただ一つ大きな懸念点があって、関係性を築く過程、いわゆる「愛を育む時間」みたいなやつが面倒臭く感じて仕方ないんだよな。別にスカしてカッコつけたい訳じゃなくて、心底そう思う。出会ってからデートを重ねるごとに心を開き、他の人には言えないようなことだってその人になら言える、みたいな関係性を築くまでの過程が怠すぎる。かと言って、出会ってたった○日で付き合う、みたいなことになるとみんな引くじゃん?その辺の世間体は気にしてしまうから。だから願いは一つ。付き合う直前の関係値を持った人に突如目の前に現れて欲しい。2〜3回デートするとかは他の人に任せて、そこでセーブしたデータだけ欲しい。なんならお金も出すから。付き合うタイミングが関係値Lv.10だとするとLv.8ぐらいの、顔が可愛くておっぱいが大きい女の子が急に目の前に現れてくれないかな。いや、こんなこと言ってる奴に彼女なんて出来る訳ないか。


キーワード③ : 常に優位に立ちたい
これが本当に厄介なんだよな。自分の中の捨て去りたい感情ランキング第1位。ことあるごとに胸の奥底から「マウント取りてぇ…」って声が聞こえてくる気がする。でもそんな悪魔の囁きに耳を傾ければ自分がどう見られるかは分かっているから、ひたすら聞こえないフリをして悪魔の囁きに蓋をし、感情を押し殺す毎日。少しでも気を抜くと、いつの間にか胸中で肥大化した自己顕示欲に飲み込まれてしまいそう。今はまだ客観力がブレーキとして現役バリバリで稼働してくれているから最悪の事態を回避できているが、もしこの先、自分の客観力が地に落ちて主観と形勢逆転した日にはめちゃくちゃ嫌われるんだろうな、と思う。ついさっきまで自分に自信がなくて周囲に合わせてばかり、なんて話していたのにつくづく矛盾した人間だよな。厳密に言うと、基本的には客観の方がずっとパワーバランスは上なんだけど、マウントを入れ込む隙を見つけた途端に主観が急成長する感覚。なんでどっちももっと良い子に出来ないんだよ。主観も客観もどちらも自分のはずなのに、自分の言うことを聞いてくれない。自分が持っているバッジの数の割にこいつらのレベルが高すぎる。

自分に自信がないくせにプライドだけは一丁前に高いって扱いづらすぎる。仲良くしてくれる人たちには本当に感謝しかない。自分が面白くあるために色々考えてるって話はさっきしたけど、そう考えていることにすら自己顕示欲が関与しているのかもしれない。笑われるんじゃなくてあくまで笑わせたいし、イジられるんじゃなくてイジりたい。というか自分はそうあるべきだという変な使命感すらある。そのためには話の主導権を握っておく必要があるから、脳内でたくさんシミュレーションを重ねなければいけない。いや別に男女問わず好きな人にならイジられても全然いいんだけど、そうさせないように無意識のうちにバリアを張ってるんだろうな。昔、同期と後輩とカラオケに行った時に、後輩が自分のことを歌が上手いと褒めてくれたことがある。その後輩に対して同期が、「こいつが下手やったら嫌やろ」と言って笑っていた。何気なく放った一言だろうし悪気なんて微塵もないのだろう。ただ自分にはそれが妙に引っかかった。歌が下手なことすら触れづらいような空気を普段から出しているのだと反省した。確かに負け顔は苦手だし、イジられそうな話題はあえて自分から話して少しでも傷を浅くしようとする。窮地に追いやられそうになるとキャラに甘えて逃げてしまう。というかそもそも窮地に追いやられないように立ち回っている。ズルい立ち位置だ、なんて言われることがあるけど、それを言われる度に、そりゃそうだろ、と思う。その立ち位置に辿り着くためにどれだけ考えて行動してると思ってるんだ。

自分に自信がないからこそマウントを取って自分を誇示したり、傷つかないようにプライドのバリアで守護しているのだろう。自分に自信を持って、胸を張って生きられるようにならないと根本的な解決には至らない。こちらから提示する前に、先に気付いて褒めて欲しい。承認欲求を満たして欲しい。明確な自分を持っていないからこそ他者と比較するしかなくて、それを繰り返すことで徐々に自分の輪郭が浮かび上がってくる感覚。明快な人のことを「太陽のような人」と比喩することがあるが、それで言うと自分は惑星でしかないんだよな。自ら発光している恒星の周りをぐるぐる回ることしかできない。だけどプライドは宇宙で一番高いから、それに甘んじて生きていくこともできない。こんなことを文字に起こして自分の中で明確にすればするほど自我の暴走に拍車がかかる。でも嫌われたくないから表には出さない。口には出さないだけで誰しも心の中にこんな矛盾を飼っているのかな。だとしたらそれを隠して何事も無かったかのように生活する能力に長けすぎている。もしかして大人ってそういうものなのか?歳を重ねると自分もそうなると思うと何とも言えない気持ちになる。他者に認められるという手段を省いて考えると、どうすれば自分に自信が持てるようになるのだろう。それこそ成功体験を積み重ねるとかなのか?受験や就活といった人生の岐路でのイベントにおいて特に大きな失敗はやらかしていないし、他の人から見れば十分成功に見えるかもしれないが、自分の中で手応えは全く無い。ただ大きなミスをしなかったってだけだ。あんな話をした後だから、こんなことを言うとまたスカしていると思われそうだけど、これに関しては本当にそう思っている。結果の大部分が運によるもので、踠いて自分で掴み取ったという感覚が殆ど無い。強がりじゃなく、もっと本気で取り組めばよかった、と思う。本気を出さなかったのではなく、出せなかった。もし本気を出して上手くいかなければ、どうしようもなく居た堪れない気持ちになってしまうから。「傷付きたくないから本気を出せない→本気を出せないから結果に満足できない→結果に満足できないから自分に自信が持てない→自分に自信が持てないからこれ以上傷付きたくない」の無限ループみたいな人生だ。自分がスカしているとかカッコつけているとかって思われる原因が全てここに集約されている。この上なくカッコ悪い理由だな。理屈をこねくり回してつべこべ言う前に当たって砕けりゃいいんだよ。その代わり、砕け散った骨ぐらいは拾って欲しいけど。


ここまで長々と書いてはみたものの結局自分がどういう人間かなんて全く分からなかった。詳しく言うと、断片的な人間性はいくつか判明したが、それぞれが矛盾しているからどれが本当の自分か分からない。常に自分の中で自我と自我が鬩ぎ合っている。2006年夏の甲子園決勝の早稲田実業vs駒大苫小牧みたいに。甲子園には魔物がいる、なんてよく言うけれど、自分自身が魔物みたいなものだ。人間の形をしているからこんなに苦しまないといけないのなら、早く誰か虎の姿に変えてくれよ。


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