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社会人

大学を卒業し、「社会人」という肩書きを獲得してからというもの、これまでは考えもしなかったようなことが脳裏を過ることがある。大学生の頃には「金!酒!女!」などといった下劣なものばかりであったが、近頃の議題は「自分の将来について」や「働くとは何か」、そして、「大人になるとはどういうことか」など多岐に渡る。まるで、心に内在するもう一人の自分に面接されているかのようだ。社会人となり、自己成長の結果としてこのようなことを考えるようになったのかどうかは分からないが、今確かに感じていることとしてここに記録する。


1. 自分の将来について

22歳(2024年9月3日で23歳になる)を迎えた今、自分の将来についてよく考える。「将来」という言葉にはなんとなく、手の届かないような先のことというイメージがあるが、どんなに実感の湧かないような遠い未来であっても、日々を当たり前に過ごしていればやがてその時は来る。実際に今がそうだ。ほんの数ヶ月前まで、こんな怠惰な自分が毎日同じ時間に起きて(とは言っても職場はシフト制なので昼前に起きる日もあるが)、毎日同じ時間の電車に乗り(とは言っても職場はシフト制なので、以下略)、毎日同じ時間まで労働する(とは言っても、以下略)ことになるとはこれっぽっちも想像していなかった。厳密に言えば想像はしていたのかもしれないが、想像がつかなかった。だが幸か不幸か時の流れは万人にとって平等であるため、こんな自分でも社会人になることができた。なってしまった、の方が表現として近いかも。思い返せば自分の人生はいつもこのような感じだった。時の流れに身を任せ、行き当たりばったりにその場を凌いでばかりいた。それを積み重ねた結果が今のような空虚な人間を生み出したのだと思うと、なんとも情けなく、過去に戻ってやり直したいとさえ思う。やはり時の流れが万人にとって平等であるのは不幸なのかもしれない。ぺこぱに時を戻してもらうか、ドクにデロリアンを発明してもらう以外に過去に戻る方法はないものか。

少し過去の話が長くなり本来のテーマとは逸れてしまったが、要約すると、これまでは自分の将来についてあまり考えてこなかったためにこんなことになっているのだから、これからはもっと考えていこう!というような感じ。なぜ急にそう考えるようになったのかは分からない。ヒトという生き物が、元々22歳あたりでそう考えるようにプログラムされているのだろうか。もしくは、就職というイベントを体験したために自分も大人の仲間入りを果たしたような気になり、少しでも大人っぽいことを考えようとする潜在意識があるのだろうか。まあ恐らく後者が原因なのだろうけど。思い返せば、そう考えるようになった要因はいくつかある。仲の良い友人数名が就職を機に東京をはじめとした簡単には会えない距離に行ってしまったり、かと思えば芸人やミュージシャンなど自分の夢を貫き志す奴もいたり、あとは地元のヤンキーが地元のギャルと結婚していたり。そう考えるとやはりヒトは18〜22歳あたりで将来を考えるようプログラムされているのかも。まあ現代の日本の社会がそうであるだけの話で、プログラムされているわけではないか。とにかく、自分を取り巻く周囲の環境が恐ろしいスピードで変容したことにより、自分がそこに適応できるのか、適応できたとしてどのような日々が待ち受けているのかについて日々思いを巡らせてしまうのである。

だが結局のところ、自分の将来についてなんて何も分からない。「どうなるんだろう…?」と妄想しているだけで、「こうなるはずだ…!」と確信を持っている部分など皆無に等しい。自分が結婚するのかどうか、どんなキャリアを歩むのか、そもそもあと何年生きられるのかなど考え始めるとキリがないし、今はそんなことを考えている時間が純粋に楽しいと感じる。こんな俺でも結婚できるのかな、なんて本気でふと思ったりする。自分のことを知っている人にとっては甚だ意外かもしれないけれど。恋バナはあまり好きじゃない(というより自分以外が好きすぎる)けど、結婚となると話が変わってくる。確固たる結婚観みたいなものは持ち合わせていないが、全てを曝け出し、生活を共にし、同じ墓に入る相手を選ぶなんて人生の岐路すぎてさすがに興味が湧く。恋愛(特に大学生の)なんて、全てを曝け出すわけでもなく、生活を共にするわけでもなく、同じベッドに入る相手を選ぶ作業だから岐路感に欠ける。多分自分の恋愛経験が少なくて捻くれているだけなのだろうけど。もしかすると自他を問わず人生の岐路に興味があるのかもしれない。人生の岐路に関する話は深く聞いてみたいし、できるだけ自分が携わっていたいとも思う。塾講師のアルバイトが性に合っていたのもこの延長なのかもしれない。まあとにかく、結婚についてはよく考えるし、自分がどんな人と結婚するのかにはとても興味がある。興味はあるが、想像は全くつかない。例えば占い師なんかに、「もうすでに運命の人とは出会っている」と言われればそんな気がするし、「これから出会う」と言われればそんな気がする。「一生出会うことはない」と言われてもそんな気がしてくるから、やっぱり占い師は信用ならない。早く未来へ行って自分の結婚相手を確かめてみたいものだ。ぺこぱは時を戻すことしかできないから、やはりドクにデロリアンを発明してもらうしかないのか。


2. 働くとは何か

働くこと、すなわち「勤労」は、「教育(を受けさせる)」「納税」と並んで我が国における三大義務として定められている。憲法やその周辺のことに知見がある訳ではないので適当なことを言うのは憚られるが、「勤労」は本当に義務なのだろうかと考えることがある。「教育」「納税」が義務であることは至極真っ当であり反論の余地がないのだが、「勤労」は義務ではなく権利ではないのか。働くか働かないかなんて自分の意思で決めるべきだろう。ただこんな自分でも考えつくことなど、これまでの歴史において議論され尽くしているだろうから、「勤労」が義務であることにもまた至極真っ当な理由があるのだろう。調べれば分かることなのだろうが、今これを書いている時点でそうするほどの体力はないのでそこは容赦願いたい。まあ実際調べはしたのだが、自分の認識や解釈が正しいという自信がないので書かないでおく。

結論から言うと、働くことはまあまあキツい。正直に言うと結構キツい。だからと言って、仕事を辞めたいだとか、この世からいなくなりたいだとか言い出すレベルにはまだ到達していないのだが、これを義務に設定するのは国民への期待値高くね?とは思う。実際に勤労生活が開幕し、以前と比べて飲み会の回数が格段に増えた。これは、全てをアルコールで忘れたいという発想が起点なのではない。会社というコミュニティが一つ増えたのだから飲み会の回数が増えるのも当然と言えば当然なのだが、それ以上に日々を生き抜く上で楽しみとなるような、いわゆる「ハレ」の日を設置したいのである。なのでこれは必ずしも飲み会である必要はなく、娯楽であれば何でも良い。とにかく、「この日までは死ねない」と思えるような予定を立てておかなければ、真綿で首を絞められるようにジワジワとストレスが沸き上がってくる感覚に陥る。それを放置していると沸き上がったストレスが喉元に到達し、体内のストレス量が飽和しそうになってしまう。だから定期的にそのストレスをハイボールで相殺し、胃の中へ流し込む必要がある。

ただもちろん、働くことの辛さしか経験していないわけではない。辛いことの方がやりがいを感じるし、高ければ高い壁の方が登った時気持ち良いもんな。イントロとアウトロが同じメロディーで、9回もの転調を繰り返しながらループしていくことで「終わらない感」を演出している桜井和寿ってやっぱり天才だ。活動再開後のシングルタイトルにこれを選ぶ時点で類稀なる才能の持ち主である。たった4ヶ月ではあっても仕事を続けていればやりがいの一つや二つぐらいには出会うことができる。塾講師時代に経験した、あの子が志望校に合格したときのやりがい程ではないけれど。お客さんが笑ってくれると純粋に嬉しいし、そんな笑いを提供できる会社の一員であることに誇らしさすら感じる。その一方で「おもんなかった」と言われると、ただただ悔しい。元々好きだったことを仕事にしたため、好きなものを否定されているような気持ちになり、魅力が伝わっていないのが悲しい。「働く」とは読んで字の如く、「人」を「動」かすことだと思う。自分が動くことによって人が動く、その人が動くことによってさらにたくさんの人が動く、そんな地球規模の大きな歯車の一員に属することが「働く」ということなのではないだろうか。ここでの「動く」とは肉体的なものだけではなく精神的な心の動きも含まれる。働くということはその対価として金銭を授受するということであり、それぞれがそれぞれの仕事のプロフェッショナルになるということである。人を動かせるクオリティでなければそれは金銭を授受するに値せず、プロでなくアマ、即ち仕事ではなく趣味ということになる。「アルバイトのことを『仕事』と言うのはダサい」みたいな風潮があるが、たとえアルバイトであっても人の心を動かしていればプロフェッショナルと呼んでいいだろう。アルバイトというのは一つの勤務形態にすぎないのだから。そして何よりアルバイトに対してそれだけの熱量を持てるのは素晴らしいことではないのか?と思う。実際にそうだった過去の自分を肯定したいだけかもしれないけれど本気でそう思う。熱量があるが故、上手くいかないときには代償が伴う。本気だからこそ嬉しいし、本気だからこそ傷つく。良いことばかりではない、でも次の扉をノックしたい。「働く」とは、『終わりなき旅』なのかもしれない。


3. 大人になるとはどういうことか

日本における成年年齢は1876(明治9)年以来、20歳とされている。しかし近年、憲法改正国民投票の投票権年齢や公職選挙法の選挙権年齢などが18歳と定められ、ついに2022年4月より我が国の成年年齢が18歳に引き下げられた。これが施行された時点で自分が20歳だったこともあり、大きな驚きを受けたのを覚えている。大人と子供の境目が20歳であるというイメージが強すぎたが、よく考えれば150年近く前の制度であり、アップデートする時期としては遅すぎるくらいなのかもしれない。とは言っても、飲酒や喫煙、公営競技などに関する規制は20歳のままである。健康被害への懸念や、ギャンブル依存症対策などの観点などによるものが原因らしい。まあ20歳を過ぎてから始めたとしてもギャンブル依存症にはなるんだけど。

「大人っぽい」や「子供っぽい」など、大人や子供を用いた比喩表現があるが、定義は何なのだろうか。一般的には、冷静沈着な様子を「大人っぽい」、一方で感情表現が豊かな様子を「子供っぽい」と言い表すことが多いだろう。少なくとも、自分はこれらの言葉をその意味で使っている。しかしそんなシンプルな言葉で言い表せられるほど大人って簡素なものではないと思う。「学校は社会の縮図」だなんて言われるように、学校にはヒエラルキーが確かに存在する。スクールカーストとも呼ばれるそれは、全国の多くの学生にとって悩みの種になっているのではないだろうか。陽気でクラスの中心的な存在の一軍、その一方でおとなしめな三軍、そしてそれらの中間層である二軍から構成されるピラミッドは社交性、スポーツ能力、あるいは学力など様々な要因が絡み合った結果聳え立つ。一軍は陽キャ、三軍は陰キャと形容されることもある。どちらかと言えば陽気で感情表現豊かな一軍は子供っぽく、おとなしく冷静沈着な三軍は大人っぽいように感じる。「おとなしい」を漢字で書くと「大人しい」だし。しかし、学生時代に三軍に属していれば大人なのかと言えばやはりそうではないだろう。どちらが大人でどちらが子供かみたいな話ではなく、その議論すらも包括して「そんな時代もあったなぁ」って他意なく言えるような人が一番大人に近いのではないだろうか。

「大」きな「人」と書いて「大人」だが、当然肉体のサイズではなく精神のサイズを指していることは容易に理解できるだろう。精神が成熟した状態こそが大人なのかもしれない。未熟な精神は、果実で言うと青く硬い状態で、苦い。成熟した精神は適度に柔らかく、甘い。硬くて未熟な精神には自分の軸は確かにあるのだが、他の考えを受け入れる余裕がない。適度な柔軟性を持ち合わせていれば、対立する意見と遭遇した際の衝撃を和らげることができる。ただこの二つは全くの別物ではなく、同一線上に位置する。つまり苦さを知る者のみが甘さを知れるのである。コーヒーやビールのことを「大人の味」と表現することがあるが、苦味は大人になる上で避けて通れない道なのかもしれない。大人になれば自由を手にし、自己選択の機会が増える。時にはその選択に失敗し、強く後悔することもあるだろう。その瞬間に人は大人になるのではないだろうか。あれは良くなかったなと振り返り、また前を向いて歩き出すことが大人になるということなのかもしれない。

そう考えると、自分は肉体のサイズが大きくなっただけでまだまだ大人にはなれてないなと思う。こんなことを言うと、周りの人はそんなことないよ、と声をかけてくれるのだろう。みんな優しいから。でもそういうことじゃないんだよな。どこまで行っても、自分のことを一番理解しているのは自分だし、とか思ってしまう。自意識過剰なのかもしれない。ていうか、自意識過剰だ。これは本当に自分の嫌なところで、直したい。でも直したいと思って直るなら悩まないし、自意識過剰じゃない人はそもそもこんなことに気を留めることはしない。自意識過剰とは簡単に説明すると、必要以上に他人の目を気にしてしまうこと。視野が広い、という側面だけを切り取れば長所なのかもしれないが、いかんせん広い視野の中の主人公はあくまで自分。主人公というか、他人の目線が自分に刺さってくるような感覚。その矢印を周囲に向けることができて初めて、気が利く、優しいというような長所に生まれ変わるのだろう。自分がどう見えているか、どう思われるかばかり考えてしまう。じゃあ自分のことが大好きなのかと聞かれるとそういうわけでもないから、ナルシシズムともまた少し違う。言葉を発する前には必ず、言葉を発した後の世界をシミュレーションすることが習慣化されている。自分の本音を話したとして、それが理解されないとなると酷く落胆するだろうから、それが怖くて適当な嘘や冗談で取り繕ってしまう。面白いと思われたいというエゴが背中を押し、これこそが最善策だと思い込むようにしている。本当は笑いに逃げているだけなのに。とにかく自意識が過剰でプライドが高い。もちろん多少のプライドはあっても良い、というかあった方が良いのだが、やはり物事は程度が重要。一定以上のプライドは成長の邪魔でしかない。プライド[pride]を辞書で引くと、[①誇り、②自尊心、③自惚れ]とある。「誇り」は持っている方が良いけど、「自惚れ」は必要ない。こんなこと言ったらどう思われるかな、なんて気にしてるのは「自惚れ」なのだろうか。自分に惚れているならやっぱりナルシシズムなんだけど。そんなことを気にしてるから、感情を素直に表現するのがいつまで経っても苦手だ。いつも天邪鬼に振る舞ってしまう。

思い返せば小さい頃から人気者への憧れがあったような気がする。人気者というのは、人を惹きつける力があり常に周囲に人がいるような人。自ら発光しているのかと見間違うほどの明るさで、他の人にさえも光を照らすような人。もっと具体的に言うと飲み会の時に真っ先に誘われる人とか。こういう人達の共通点って「素直さ」なのではないかと思う。素直というのは周りに対しても、自分自身に対しても。素直で感情表現豊かだからこそ見ていて飽きないし、一緒にいて楽しい。そう考えると真逆なんだよな。感情をあまり表現しない天邪鬼のことなんて誰が好きになるんだよ。お前のこと誰が好きなん?って感じ。ただ一つ希望があるとすれば、自分がこんな人間だってまだあまりバレてなさそうなところ。心に渦巻く負の感情を持ち前の器用さでコーティングしてきた。その化けの皮が剥がれてしまう前に負の感情を取っ払いたかったのだがどうやら無理そうだ。これからは徐々にゆっくりとコーティングを取り外し、こんな人間であることをじわじわと周知させるやり方に方針転換しようかな。持ち前の器用さを活かして。まあこんなこと書いてる時点で化けの皮全剥がしなんだけど。余計な自意識やプライドも文章を書くにあたってはアクセントになるかもしれないと思ったが、それどころかもはや主役にまで登り詰めそう。言語化したことによりこれまで眠っていた自意識すら叩き起こして、自意識過剰が加速してしまった。でもこんなことを考えている今のことさえも「そんな時代もあったなぁ」って笑えるようになれば、それが大人になるということなのかな。今はまだこれを書いていることすらどう思われるかを気にしてしまうけれど、何年か経った時にはお酒でも飲みながら全部ひっくるめて笑っていたい。こんなに大きな負の感情でもハイボールは相殺してくれるのかな。いや、メガハイなら大丈夫か。



…みたいなことを最近は暇なときに考えている。まあこれを書くにあたって考え直した部分は多々あるけど。こんなに読みにくくて長いだけのくだらない文章をここまで読んでくれている人なんているのだろうか、と書きながら思う。でもこれは誰かに読んでもらうためではなく、自分自身の記録として書き始めたのだからこれでいい。ただこの程度の文章しか書けないという事実も記録されてしまった。文学部卒とは到底思えない。子供の頃に思い描いていた22歳の自分とは大きくかけ離れているけれど、これもまた自分なのだと受け入れ、肯定することが大人への第一歩だとすると、あと少しで踏み出せそうな気がする。こんな感情に苛まれながら、周囲にそう気付かせないように「普通」を身に纏い、社会に擬態している。そう思うと、全国の大人たちの驚異的な生命力に感服する。さすが人生の先輩達だ。とはいえその人達にもそれぞれの悩みがあるんだろうけど。普通に働いて、普通に結婚して、普通に家庭を築く、なんて自分にも普通に出来ることだと思い込んでいた過去の自分はやっぱり子供だったのだと今なら分かる。

未来のことなんて誰にも分からないし、過去には決して戻れないからこそ今が大切なわけで、未来を憂うでも過去を嘆くでもなく、その一瞬一瞬を精一杯生きるべきだ、というありきたりすぎる結論に辿り着いてしまった。やっぱりデロリアンは映画の中だけで十分だ。


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