ずいぶん永い眠りと評価することの意味、逃避行
ずいぶん長い間休んでいたような気がする。たなかになる前はぼくのりりっくのぼうよみというのをやっており、かれこれ4年くらいは熱心に活動していた。そして終わった。新しくDiosという名前のバンドを始めた。
ものごとには大体終わりがくる。終わらないと始められないから、当たり前のことだ。睡眠はきっとそのためにある。漫然とつづく連続を眠りで強制的に切断することで、一日という単位が生まれる。終わると、評価することができる。終わらなければ評価できない。評価するのは自分だったり他人だったりする。そこは問題じゃない。とにかく、終わったものしかテーブルには載せられない。生きた牛を出すレストランはおそらく繁盛しない。味わうためには、それが終わっている必要がある。僕らは死体を食べて生きる。
さらに言うと、評価するには死後かなりの時間を要することすらある。ワインが静謐のなかで熟成していくように、正しく味わうためには待たねばならない。あの時の言葉は正しかったのか? 彼女は飛び降りて救われたのか? やり直したいことばっかりが集まっていく。そもそも答えなんてない問いに、自分なりの解を出すことが、評価するという行為の本質だと思う。自由であるというのは答えがないことを意味する。答えがないというのは絶対的な基準がないことを意味する。そしてそれは、誰からも赦してもらえないことを意味する。
二年経って、ぼくりりを終わらせたことは、自分にとって過去を精算することだったんだと分かった。そう評価した。自分を赦せるのは自分しかいないし、赦そうが赦すまいが世界は顔色ひとつ変えずにそこにいる。自由の持つ残酷な側面を知らないまま無邪気にそれを求めていた自分はもういないし、その喪失こそを成長と呼ぶのかもしれない。
すべてを自分で決めなければならない。自分の命は結局自分でしか背負えない。そういう残酷さはカモフラージュされ、しれっと日常に溶けこんでいる。それでも、ふとした瞬間に目が合ってしまう。怪物はただ笑っている。こうして流れる一分一秒が、自分だけのものであることを思い出してしまう。
連続した時間を眠りでちぎって、一日と名づけることは、いのちの残り日数が漠然と意識されてしまうことだ。終わりがあるから、評価しないといけない。より良い生存へと向かわなければならない。そこに理由はない。淡々とつづく日々はそんな顔を隠し持っている。いいことも悪いこともたくさんあったし、愚かだった自分をただ恥じる夜がけっこうある。生きるうえで、そんなに多くを持っていくことは出来ないなと気づいた。自由に生きることを決めたなら、自分の価値観とかいう、日々揺らいでいく頼りなくて曖昧なものと共に走らねばならない。毎日毎日、眠ることで終わりの練習をして、いつかくる本番に備えるしかない。
そういう曲を書きました。よかったらぜひ。
寿司が食べてえぜ