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まつ毛


ある日仕事から家へ帰ると、同棲している彼女のまつ毛が全部無くなっていた。
正確にいえば彼女自らの手で全部抜いてしまったらしい。

29歳という年齢の割に幼い顔つきの彼女に、
不意に厳つさが伴っている。
その現実に笑えばいいのか、困惑すればいいのか、脳が一瞬でパニックに陥った。

どうしたの?とただいまを言うのも忘れて僕が尋ねる。
ストレス発散。とだけ彼女は答えた。

何に対するストレスなのかは聞けなかった。
もし仮にそのストレスの原因が自分だったらと想像すると、これ以上容易に踏み込むのは非常に危険だと感じたのだ。

例えるなら、
昨日まで芦田愛菜ちゃんだった存在が今日になると白竜になっていたほどの変貌ぶりだ。
まつ毛一つで大袈裟なと思うかも知れないが、それなら今すぐまつ毛を全部抜いてみるといい。
本当に人相が変貌するのだ。

愛菜ちゃんを白竜に変貌させる原因を自分が作ったとは想像すらしたくない。
愛菜ちゃんの事務所からの損害賠償金もシャレでは済まない額だろう。



彼女は自分の顔を愛している。
決して派手な顔立ちではないが、愛嬌があり、笑うとえくぼが出来る、老若男女問わず親しみやすく、愛されやすい顔をしているのだ。
そんな自分の顔を自分で愛している事を、付き合ってから早い段階で僕は気付いていた。

その顔を反対方向に向けて思いっきりハンドルを切る返しているのだ。
たった数時間会わないうちに。


ひとまず心の態勢を整えようと、戦場になりそうなリビングから静かに撤退しようとすると、

今日仕事でさ、、、と何の文脈もなくポツリポツリと彼女が話し始めた。

彼女は販売の仕事をしており、どうやら面倒なクレーマーの対応を押し付けられたらしい。

ベッドのフレームがギシギシうるさいっていう口が臭せーおっさんの話を小一時間聞かされたんだけどさ、なんか気付いたらまつ毛抜いてたんだよねー、そう話しながら彼女の手は一本のまつ毛も残っていない瞼へと向かって伸びている。

安堵。とてつもない安堵が襲う。
それは大変だったね!!とオーバー気味に彼女を労う。
この世の生きとし生きるもの全てに慈しみと感謝を捧げたいほどの感謝。安堵。
自分を恐怖のどん底に陥れた口の臭せーおっさんへの憎悪はひとまず置いて、
この安堵に酔いしれる。



なんかまつ毛無いだけで人相変わるよね。と彼女
うん、だいぶイカつくなるね。
まつ毛ってどのくらいで生えるのかなー?
うーん確か髪の毛は1日0.3㎜とかだったから1週間もすれば元に戻るんじゃない?
1週間もかー、クソーメガネで誤魔化せるかなぁ。

サングラスを掛けた白竜が頭に浮かび上がるも、
すぐさま打ち消した。