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BEAT CRAZY 其の三

前の記事(https://note.com/tamuraya_kyoto/n/n0a6e45293bce)にも書いたHOT SHOTつながりでBONESがちょくちょく BEAT CRAZY(以下ビークレ)の企画に出してもらうようになる。

BONES

ヨシダ、フンニャラ、オセキ、ムラヤマで結成された。京都ハードコアの伝説的なバンド。

のちにベースのフンニャラはCITY INDIANを結成。
ギターのオセキはS.O.B.に加入することになる。

当時、俺達はフンニャラの住んでたアパートでBONESのメンバーを中心に半共同生活のような暮らしをしていた。

ほぼ毎日つるんでたな。

よくMOBSのジョウタロー君やマスターベーションの初代ドラム神風君も泊まりに来てた。

そんな頃、COCKNEY COCKS(以下コックス)を正式に結成することになる。

何せ世間ナメてますから(笑)
バンド組めばすぐライブ出来ると思ってたわけですよ💦

デモテープ持って行ったら断られると思ってたので手ぶらでフンニャラと蘭子さんの家まで押しかけて『ビークレに出して下さい!』って直談判!

蘭子さんは『oiってどんな感じのパンクなんか分からんけど、アンタの熱意に負けたし、試しに1回出てみるか?』
って言ってくれたのがきっかけ。

その後、行われたデビューライブはとても苦い想い出になってしまうのだが…(笑)
(OI of JAPAN 其の三を参照していただけると有難い。https://note.com/tamuraya_kyoto/n/nea33b0c8bcc9)

マイクスタンド振り回したり、とりあえず3コード弾いてるだけじゃダメなんだとやっと気づいた俺達は真面目にスタジオに入ったり、曲作りやカヴァー曲を練習してみたりしていた。

フンニャラやヨシダや内藤君がスタジオに遊びに来てくれて
『そろそろ、ええんちゃう。前よりはかなり上手くなってるから、また蘭子さんに頼んでみたら?』 
なんて言ってくれていたけど、なんかバツが悪くてなかなかビークレのライブで蘭子さんやシノやんに会っても言い出せずにいた。

『でも、ライブやりたい!』
『なら自分達で企画するしかない!』
ってことでハコを探すけれど、金のない俺達にはハードルが高かった。

思いついたのは『昼間なら安く貸してくれるとこないか?』

で、見つかったので“バウハウス”って木屋町にあるディスコ!
クラブではなく正真正銘のディスコ!デ.ス.コ!サタデー・ナイト・フィーバー(古!)な感じ!

そのディスコで日曜日のお昼ランチタイムからスタートのライブを企画した。

出演はOUTOとBONES、そしてコックス。

OUTO

今ならちょっと考えづらい企画(笑)
しかも…この面子…

11:00オープン12:00スタート…

『こりゃ宣伝しないと大変なことになる…』
今の様にSNSなんてないし、広告打てば金かかるし…

俺達が取った“作戦”はチラシを京都の街のありとあらゆる電信柱に貼り付けて回る作戦(笑)

夜中、人通りの少なくなった繁華街、大学周辺、高校周辺、ライブハウス、音楽スタジオ周辺にベタベタと貼りまくる!

しかも剥がれ落ちないように洗濯ノリでチラシをべっとり湿らせて、雨降りの次の日が貼りやすかったナァ(笑)

何日もに分けて作戦を決行したのだが、何度かお巡りさんに追っかけられて散り散りになって逃げてました…(集合場所は事前に決めていた)

そのお陰かどうかはわからないけど、ライブはお客さん満杯で大成功!

その後、 五条の烏丸通と堀川通の間にあったアビレックス(だったっけな…名前忘れた💦)っていうイベントスペースで行われる企画にも出してもらえるようになっていた。

そんなある日、蘭子さんから電話があって『磔磔のビークレ企画に出ぇへん?』って。

出ます!出ます!
やった無罪放免!(罪を犯したわけではないけど、なんかそんな感じ笑)

そしてしばらくして、ビークレが年に何度かやる京都大学西部講堂での大きなイヴェントにも出してもらえるようになった。

磔磔もそうなんだけど、京大西部講堂はPUNKの聖地!

それから何度も西部講堂のステージに立たせてもらったけど、独特の緊張感で包まれてたな。

当時のビークレの企画はごった煮的な面子でハードコアで固めたりとかはなかった。

このフライヤーどっかのWebで見つけたけど、今では考えられない取り合わせ。

蘭子さん、シノやん達の人脈の広さを今また改めて感じている。

次回に続く…






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