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尾張の意地  その3

鳥羽伏見の戦いで、会津藩と桑名藩は
長州藩相手に交戦。
しかし、両藩とも敗走。
会津の容保は、徳川慶喜と共に江戸へ入り、
容保は会津へ。

定敬は、桑名から容保のいる会津へ入る。
奥羽越列藩同盟で官軍に対抗するも敗走。
定敬は、榎本武揚らと五稜郭で戦うも、
最終的には上海へ逃げる。
資金が尽きて、横浜に戻り降伏。

謹慎中の容保、定敬を救ったのは、
慶勝、茂徳の二人の兄。
義直の遺訓を守り、朝廷側についた
功績や人脈を活かし、
弟二人を助けた。
幕末から明治維新後も、
歴史の波に翻弄された
四兄弟がやっと顔を合わせることのできたのは。
明治11年9月3日に銀座の写真館だった。

慶勝は、名古屋城の鯱をポーンと明治政府へ寄付。
雄鯱は、国内各所で展示された。
雌鯱は、ウイーン万博へ出品された。
他の展示品とともに
日本のジャポニズムとして人気を博した。
日本へ出品した作品は船便で戻ってきたが、
暴風で船が座礁、沈没。
しかし、金鯱は大きすぎて別便で送ったおかげで
無事戻ってきた。

明治政府も金鯱を持て余したのか、
名古屋城へ戻ってきた。
再び名古屋城の守り神についたが、
1945年の名古屋大空襲で、お城とともに焼け落ちた。

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