見出し画像

尾張の意地  その2

尾張徳川家の始まりは、家康の九男、徳川義直。
尾張名古屋藩の藩主。
彼の残した「軍書合鑑」の巻末に残した
一文が「尾張の意地」を感じさせる。

江戸幕府が八代吉宗を御三家から、将軍を迎えた。
その吉宗にことごとく、逆らった宗春を隠居させる。
幕府が強引に養子を送り込む。
尾張家への牽制のために。

十四代目にしてやっと、尾張徳川家の高須家から
藩主を迎えることができた。
徳川慶勝は、なかなかの人物で、
井伊直弼と衝突して、安政の大獄で謹慎。
カメラに興味を持ち、名古屋城内を機材を持って歩き回った。
名古屋城内の写真が残っている。

謹慎が明けて、第一次長州征伐の征長総監として
長州へ赴く時もカメラ機材も持っていった。
合流した薩摩の西郷隆盛を写真に撮ろうとして
断られた話が残っている。
もし、この時撮影に成功していれば、
間違いなく貴重な一枚になっただろう。

高須家は、慶勝の弟三人が藩主になっている。

五男 茂栄は、尾張藩主(慶勝が隠居のため)
七男 容保は、会津藩藩主
八男 定敬は、桑名藩藩主・京都所司代

のちに慶勝はまた、藩主に返り咲く。

幕末の動乱がこの四兄弟を弄ぶ。
社会科の授業で、官軍が西から上がってきて
鳥羽伏見の戦いで勝利を収め江戸へ上がっていく。
そして江戸城無血開城。

徳川御三家筆頭の尾張でなぜ戦いが起きなかったか。
教科書にも資料集にも載っていない。
この本を読んでやっと知った。

慶勝・茂栄は尾張徳川家。
容保の会津藩・京都所司代、定敬の桑名藩は幕府側。
四兄弟ともに幕府を守る側。
官軍が東海道を上がってくる時に何も起きないわけがない。
しかし、官軍との戦いは歴史に残っていない。

ロールプレーイングゲームのように
ここで徳川義直の残した「王命に依って催さるる事」が
200年以上の時を超えて発動された。
「王命に依る」つまり何か騒乱があれば、朝廷側につくこと。
佐幕派の家臣14名を斬首。
周りの諸藩にも新政府恭順を依頼。
官軍は、戦闘をすることなく江戸へ入る。

その3へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?