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八郎潟

秋田県との出会いは、小学校の社会の授業。

琵琶湖に次ぐ大きさの八郎潟を干拓して
お米がたくさん生産されるよう
現在も干拓工事中です。

昭和32年から20年間にわたる干拓事業は、
必ず社会科で紹介されてきた。

調べてみると意外な事実がわかった。
干拓事業とサンフランシスコ条約が繋がっていた。

第二次世界大戦後、日本が国家として再び主権を回復するためには、
平和条約を結ばなくてはならない。
日本は、48カ国との平和条約を結ぶには、
全ての国の承認が必要になる。
多くの国は、承認。
だがオランダが難色を示していた、国民の対日感情も悪く
アメリカがとりなしてもなかなかOKが出ない。
賠償金が出せないなら、
日本への技術援助(相応の技術料とともに)をする。
オランダの妥協案。
しかし、オランダに技術援助をしてもらう事業がなかった。

吉田茂総理の号令のもと各省庁が事業を探しまわった。
やっと見つけた事業が八郎潟の干拓。
江戸時代からその構想はあったものの
琵琶湖の次に広い八郎潟を埋め立てるには
多くの障害があった。
その計画がやっと日の目を見た。

日本人技師のオランダ留学や
オランダ人技師の派遣など交流を経て干拓事業がスタートした。
オランダからやってきたヤンセン博士は、日本の技術陣の能力を称え、
吉田首相への報告の中では
「何故私が招かれたのか真意がわからない」とまで言った。
技術援助のヤンセン博士にここまで言わせた日本人の底力。
日本人に対して謙虚に評価をしてくれたヤンセン博士の人柄。
1行も教科書に載っていないのは、残念。

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