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「テスト」ってやつがあるから、気をつけな

息子の小学校では、学校の取り組みで全学年が漢字検定を受ける。
その初めての漢字検定で、小1息子は見事満点で合格した。
といっても、10級なので小学校一年で習う漢字を普通に読み書きできれば、合格できるもの(合格率96%)らしい。

「満点」をとれば、普通の親は喜ぶ。
こういう書き方をすると「嬉しくないの?」と思われそうだが、もちろん喜ばしいし、誇らしく思う。
しかし、私の考えすぎか、既に複雑な気持ちになっている。

何がそういう気持ちにさせるか。

乳幼児期を経て、いま児童期の最中。
そのうち遅かれ早かれ、息子が「受験ビジネス」の餌食にされることは、この現代日本の社会システム上、避けざるを得ないことは知っている。さらにその先の、今私が身を置いている社会へ向かって、息子が確実に歩いてきているのも見える。
つまりこの先、テストや受験等といった多種多様な「他者評価コンテンツ」の壁が否応なく息子の前に立ちはだかる。破っては現れ、破っては現れ…。この義務教育(初等教育)の時期からそのスタイルが導入され、国の「仕込み」が着々と進められる。

「テスト」ってやつがあるから、気をつけな

息子が入学式に2年生からもらった手紙より(超訳)


乳幼児期は
「生まれてきてくれてありがとう」
「生きているだけで幸せ」

だったはず。
いつしかその心情は抜け落ち、「幸せ」の基準が、親も子も「社会的価値」に移り変わり始める。
呼吸も歩行も、生きていることが当たり前になり、「今」ではなく、段々と「将来のために」となってくる。そういう「気」を付けるべき転換期であると思っている。今の時代、こどもの習い事も多種多様豊富にあるし、そこにも必ずと言っていいほど「他者評価コンテンツ」がある。
そして、中高生にもなると、「なぜそうなった?」という狂ったレベルで、学力至上主義が台頭し、一気にそういう空気がこどもたちの世界を支配する。その頃から、習い事も多種多様だったはずが「塾」一辺倒になる。

何に勝つの?


そこからは一気に「就活」というターミナルに直結しており、その先に今私がいる社会がある。そして社会に出てからも尚、資格や昇格試験など、「他者評価コンテンツ」は一向に絶えることはない。
我々はこの社会の労働要員として、常にテストを繰り返され、搾取され、使えなくなれば「適応障害」、使い切られたあとは「老後」といった具合に烙印を押される。
そして最後は「終活」という金のかかる産業廃棄物のように、最期の一滴まで、社会の経済を回す資源として有効利用される。焼かれた後の骨すらも、宗教ビジネス上では有効な搾取ツールとして利用される。まるでSDGsの鑑のようなシステムだ。

10級の漢字検定。
難易度は低いといえど、そこにはこういった現代社会の縮図チップが組み込まれており、過去に私が味わった胸糞悪い、学力至上主義という戦争前のきな臭い空気を感じる。
「またアレが始まるのか…」という感じ。
これが息子の漢字検定に私が抱いた複雑な気持ちの要因である。
これは満点・不合格に関係なく、どんな結果でも、それを感じただろう。


あの頃の思い出

ちょっと長くなりそうだが、ここからは、私の過去の話になる。
私は小学校時代、親から中学受験を強いられた。そこからその名の通り「(受験)戦争」が始まったことを覚えている。

私を取り巻く大人たちは、
「あなたのことを思って」
「将来の選択肢は広い方がよい」

「テストは90点以上でなければ意味がない」
(良い点数、高い偏差値であることが美徳)

などと言ってきた。
私の兄者が非常に成績優秀だったということもあり、弟の私はその追従を暗に求められた。だから普通以上には勉強していた方だと思う。
しかし、テストの点数が悪かった日には、
「どうした?」と先生から心配されたり、
「何を勉強してきたの!?」と親に罵られる始末。

どうもしてないです。勉強頑張ってます。

当時の私より

当然だが、取り巻きの大人たちは自分の立場で言いたいことしか言わない。つまり「自分」のことしか考えていない。おそらく「あなた(こども)のため」ではなく、世間体を第一に「社会的に立派な大人」でありたいがために、こどもをダシに、「世間一般評価規定」に則った行動・発言をしているだけである。受験の中でも小学・中学受験は、こどもを利用したビジネスであると同時に、親が自身の社会的アイデンティティを確認したり、自己実現を行う(見栄を張る?)場でもある。
大人は、こどもが持てない「責任」を所持しており、社会が定義したその「権利」を振りかざし、こどもたちに「社会通念(常識)」を否応なく植え付けようとする。これは国の意向であり、その傀儡として、親と教師らがタッグを組み、こどもにけしかけてくる。
彼らの言い分としては「この国で、この文明社会で、生きていく上で必要なことを教えている」のかもしれないが、「ex.こども」だった私からすれば、当時彼らはそんな俯瞰した観点すら持ち合わせていなかったように思えるし、そういうことも私に教える気配はゼロだった。ただ国が用意したカリキュラムをこどもに押し付け、目の前の役割と労働をこなす、ただそれだけ。
「ex.こども」だった私もそうやって、目の前に用意された壁にとりあえず立ち向かう日々だった。大人たちは、無自覚に自分たちが縛られている縄と同じ縄をこどもたちにも綯おうとしていた。
なるほど、これが「思考停止の仕込み方」か、と今になって思う。そこで育ったこどもは、また自分のこどもにも良かれと思って同じ縄で縛ろうとするだろう。
繰り返すこのポリリズム。
非常によく練り込まれた国の教育システム。


自分が30代から今の40代になって思う。
そうやって、言われた通りにやってきて
将来の選択肢を拡げてきました、
そして大人になりました、
でも「自分で何も選べません」となると、
結局その拡げた選択肢は何になるの?と。
拡げる作業には特化しているが、拡張後、指示待ちの作業員…みたいな。
私は幸い、そうはならなかったが…。


この「将来の選択肢は広い方がよい」と同一線上にあるのが、
「お金はたくさんある方がよい」だと思っている。
その理由としては、
「その方が選択肢が増えるから」
ひいては「それが豊かであり、幸せだから」
という酷似した構図。

確かにお金はあるに越したことはない。
ただ、お金は「何か価値のあるものと引き換えが可能な便利チケット」のはず。しかし、何らかの歪みで「便利チケット(お金)そのものが価値のあるもの」という概念が刷り込まれてしまったらしい。結果として、便利チケットの「数量」が、幸せを量る指標となってしまい、肝心の「自分で価値を見出す」ことが育まれにくい社会環境になってしまった模様。その何らかの歪みの原因は、先述の「他者評価コンテンツ」と密接な関わりがあると思われる。

例えば、
・学力テストで偏差値が高かったから、先生や親の助言で、医学部を目指すことにした。
・色々面接を受けて内定をたくさんもらったが、その中でも一番社会的地位の高い有名企業に就職することにした。
・人生の勝ち組を目指し、年収1000万円を実現。タワマン上層に住む。
など

偏見に満ちた例である上に、私のような貧民が偉そうに言える立場でもないのだが、どの例も何かが抜け落ちているように感じる。判断指針がまるで何かの、誰か(他者)のテンプレートに乗っ取られたようである。おそらくそれは、国の教育の中で培われる「幸せ」と称されるテンプレート。上記例の字面だけでも、培われた「豊さ(のようなもの)」を感じるではないか。

おそらく近年流行りの「手段の目的化」現象は、個人の話ではなく、根本的にこれら教育やお金に対する考え方がベースになり、多岐に渡り生じている社会病理ではないかと思える。

こういった
「たくさんある方が良い」
「たくさん備えておく方が良い」
という思考。
「たくさん所有すること」は、
「色々と選択肢が広がる」
それは「豊か」であると。

この「蓄え」の概念は、「農耕」が始まった弥生時代が起源とされているらしい。縄文時代までその日暮らしで狩りをしていた人間が、効率よく食べていくためのシステム。そこから「所有」の概念が生まれ、諸々の「争い」が起こり、歴史の教科書の弥生時代以降は、話題にこと欠かない状態になった、らしい。


幸い、私は社会に出て、そういうコトに気づかせてくれるような人に出会うことがあった。ただ、そういう出会いも含め、その思考は本当に自らが手繰り寄せようとしないと、手元に受け取って身にすることは難しい。そこの「取手の引っ掛かりを感知できる感覚」がとても大事だと思う。普通の学校教育では、不都合が生じるので、たぶん教えてくれない。
きっと私は学力至上主義への反動があまりにも強すぎて、自然とそういう強めの反骨精神が生成され、通常路線では交わらないベクトルの人と出会うことになったのだろう。

学力至上主義時代のド真ん中、私の人生史上最大のクソの極みだった高校生活で、唯一面白いと感じた教科は高校2年の「美術」と「倫理」だった。先生が良かったということもある。
当時何も思わなかったが、この二つには共通しているものがある。
それは「正解がない」ということ。
厳密に言うと、評価対象として強引にテスト化(問題化)すれば、「正解」を創ることは可能だが…。そこには大した意味も価値もない。
学力至上主義の渦中で、正解を強要されないこれらの授業は、私にとってオアシスのような時間だった。

そこで必要だった力は、倫理、つまり哲学でいう「問い」=「正解のないこと」に対し、根気よく立ち向かう力だった。(美術の「イメージ表現」は楽しかった)
これを『ネガティヴ・ケイパビリティ』というらしい。

ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)は、「答えの出ない事態に耐える能力」を指す。言い換えると、直面する問題がすぐに好転しない状況下でも、投げ出さず腰を据えて解決法を模索する能力とも言える。

「あしたメディア by BIGLOBE」より抜粋

この能力は、必ず正解があるような「他者評価コンテンツ」では、まず測ることはできないだろう。ましてや「全てに正解がある」と信じる者にとっては、どちらの授業も取り留めがなく、苦痛でムダな時間に思えたのかもしれない。

先日、『すべての仕事はデザインから始まる』という本を見つけた。この本には、デザイナーに発注する前の施主側のデザイン(やるべきこと)について書かれている。
これを手に取った理由としては、私の会社(施主側)が事業やプロジェクトを企画する度に、施主側がその方針やコンセプトをおろそかにすることが多々あったためだ。内容がよければ、社内で回覧するか、関係者に情報共有できればと思っている。
施主側のプロジェクトメンバーは、皆いわゆる偏差値高めのそこそこ良い大学出身者であるにもかかわらず、ろくにコンセプトも考えず、そのまま外部のデザイナーに丸投げすることがしばしばある。結果として毎回、あれも違う、これも違う、とデザイナーに言い始め、デザイナー側からすれば結局何がやりたいの?となる。デザイナーを使って、何か「それらしいこと」をやってるだけ。ただの「デザイナー殺し」である。
施主側のこの横柄とも取れる姿勢は、そういう正解のない「問い」と対峙することを怠ってきたからではないかと私は思う。学力至上主義のいわゆる「勉強」という忙しさ(正解探し)にかまけて、「多忙を怠惰の隠れ蓑」にして、本当の「問い」から逃れ、既成の、誰かによって人工生成された正解ばかりを追い求めてやってきたからだろう。そこに哲学的な思考は皆無。
デザインには、その環境や条件による最適解はあるかもしれないが、決まった正解はない。そもそもそういう概念が彼らには備わっていない。
でも、その代わり彼らは、数字にはめっぽう強い。
数字は裏切らないから。

長々と色々書いてしまったが、息子にはそうはなってほしくないなぁと思う。
この思いは、先述の『…取り巻きの大人たちは自分の立場で言いたいことしか言わない。つまり「自分」のことしか考えていない…』のブーメラン発言にならないようにしたいが…。

冒頭の漢字検定の話に戻り、
もし息子が今回不合格だった場合、私は息子に何を言えただろうか。
ちゃんと勉強せなあかんで、と言ったか?
もう少し頑張ろうか、と言ったか?
次頑張ろうか、と言ったか?
失敗してもええんやで、と言えたか?

おそらく次回からのし掛かるであろう「満点」というプレッシャー。
失敗する勇気、失敗できる力、そういうのもこれからの多種多様なコンテンツの中で体験してほしいと思う。

もちろん勉強すること自体は何も悪くない。
むしろたくさんのことを知るということは、生きる喜びだ。
「やればできる」という自己肯定感も生まれるだろうし。
ただ、やはりあの学力至上主義にどっぷり浸されることだけには気をつけてもらいたい。ましてやそれを生きがいなどに絶対して欲しくない。そこに生きがいを見出すことは、薬物摂取に等しく、一生腐った幻覚中毒の中で生きることになるから。(薬物にも諸々ありますが…)

「テスト」ってやつがあるから、気をつけな

息子が入学式に2年生からもらった手紙より(超訳)

だからこそ、今から突入するこの学力至上主義を前に、「なぜ勉強するのか?」ということをきちんと息子自身が確認することが重要だと思っている。そのためにどのように私から伝えるかは模索中…。

幸い、今回の漢字検定に関して、息子は「漢字が好き」と言っている。
これは本当に「救い」だ。
「好き」は「救い」だ!
息子には、例のコンテンツとは程よく付き合ってもらいながら、親としては、この超重要なポイントは見過ごさないようにしていきたい。
もちろん「生きているだけで幸せ」ということも。

※つぶやき140文字から書き始めたら、超絶長くなってしまいました…。
取り止めもないテキストをここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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