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健全なる現実逃避

なんかわからんけど、すごいものを作ったとする。
とにかく自信作だ。

それをすぐさま
幼少の頃であれば親に
学校であれば友達や先生に
会社員であれば同僚や上司に
大人であれば社会に
とりあえず身近な人に
シェアして「いいね!すごいね!」と褒められたい。

大人になっても、どんなに老いても
きっと死ぬまで人は誰かに
褒められたい。
認められたい。

誰かに『認められる』
それは唯一、自分の存在を認識できる瞬間だろう。
それを常に欲しているような気がする。
みんなきっと自分が何者か全くわからない。
気がつけば正体不明の高次元な肉体を借りて
わけも分からず、日々生命活動を営んでいる。
とりあえず、何かしらわかったフリをして生きている。
物心ついた頃から、本当は自分が何者か知りたくて仕方がない。
日々不安で仕方がない。
でも、そいつと目を合わせると
何かが崩れて、どうかなってしまいそうだから
目をそらして、社会という防空壕に身を潜めて生きている。
そこで特に問題でもないことを問題に仕立てて、問題をクリエイトしてはソリューションを求め、多忙に身を隠し、色々なことを「そういうこと」にしてやり過ごしている。
それは人間社会ではとても「社会的」で立派な有り様である。
健全に現実逃避している。

でも日々を思い返すと、
他人と分かり合えるはずもないけど、分かり合おうとすることも
それに懸けてみたいという想いや衝動があるということも
「生きている自分を認識していたい」
自分の命を「生きたい」ということなのだろう。
誰からの指示でもなく、ごく自然に。

何のために生きている?

社会に貢献するため?
家族のため?
お金を稼ぐため?
好きなことをするため?

たぶんいづれも誰かに自分の存在を認められたいことに変わりないのではないか。
それがおそらく人の生きる原動力。

例えば、誰かとあいさつを交わすこと。
それがないときとあるときの、生命感や幸福感の違いは多くの人が体験したことがあるのではないだろうか。
朝一に誰かと「おはよう!」を交わすこと。その一日の私の存在が初めて認められる瞬間だ。それはもっといえば、昨日眠りについて死んだはずの私の細胞が生まれ変わり、今も尚、無事にここに継続して存在していることが証明される、昨日と今日をつなぐ命の言葉。

そういう刹那の生命感を味わうために
つまり「生きる」ために、生きている。
社会的な役割や仕事などは、その生命感を味わうためのツール・営みに過ぎない。
社会の起源もその構造も…人間が編み出したなんとも遠回りで不器用で不気味な世界だ。

ヒト以外の生命体もただ「生きる」ために、生きている。
もっといえば「死にたくない」から生きている。
それは、身近なアリやハトを見ていても、なんとなくわかる。
ただヒトは、思考や想像に長けているがゆえに、社会の構造上、そのルートが複雑に歪曲している。
だから、行き詰まり、「自害」ということも起こりえる。
なぜか人間社会では「何のために生きている?」という、「生きる理由」を設定しなければいけない。
それがそもそも異様である。
「私は、死にたくないから生きている」が通用しない世界。
何か社会的な価値がないと、それが「生きる理由」としてみなされない。
生きる価値がない、とされる。
ヒューマンエラーならぬ、ネイチャーエラーだ。

私たち人は、生命体・宇宙というとてつもなく大きいネイチャースケールにおける、僅か一部のヒューマンスケールの世界にいる。
我が物顔で世界を牛耳ってるように見えて、滑稽なマイノリティだったりする。
かといって、人である以上、ヒューマンスケール、人間社会から逃れることもまた難しい。
でも「生きる理由」が「社会的価値によるもの」だけではなく、その大枠として「生命感」があると、スケールダウンして考えることはやっておいて損はない。むしろ人は生命体として、それを自然的に、本能的に既にわかっているはずだ。
単焦点レンズもいいが、そういうズームレンズも持っておく。
これは自然という爆弾で防空壕が破壊されたとき、サバイバル道具の一つとして、きっと役に立つのではないかと思う。


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