ACIM第1章の読解
ACIMのワークブック(学習書)の方の実践を2020年12月25日から毎日1課ずつやっているのですけど、肝心の?元のテキスト(本文?)の方を読んでいなかったので、読んでみようかと思います。
ワークブックの課題をやっていて、ここのところどういう意味だろ?とか、言葉の定義みたいのが謎だったりすることがたまにあるのだけど、テキスト読めばそれが書いてあるかもしれないしね。
ということで、「読解」というほどではないけど、テキストをざっと読んで章ごとにまとめていこうかと思います(不定期&気まぐれアップロード)。
第1章は下記のような目次となっています。
(ちなみに、第31章まであります。)
第1章 奇跡の意味
1.奇跡の原理
2.啓示と時間と奇跡
3.贖罪と奇跡
4.暗闇からの逃避
5.完全なすがたと霊
6.必要性についての錯覚
7.奇跡への衝動の歪み
1.奇跡の原理
1-1では、奇跡の原理として50項目がズラ~~~~っと並べて書かれているのだけど、「ほぉー」っと思ったことがいくつかあったので箇条書きで書いてみます。
・奇跡は愛の表現として自然に起こる。
・奇跡は誰もが持つ権利、しかしまず清めが必要である。
・奇跡は不足するものを補うので癒しであり、それは一時的に不足している人のためにその時点で余裕のある人によって成される。
奇跡の原理、とても分かりやすい気がする。困っている人がいて、助けたい人がいて、そこに純粋な愛がある時に発生する、という感じね?
あと、ACIMの理論や思想が垣間見れる文章も抜き出しておきます。
・からだ(body)ではなくて、霊(spirit)こそ真理の祭壇だと自覚すること。
・あなたを物質的な法則を超えたところにおき、天界という階級の城へと引き上げる。
・聖霊(The Holy Spirit)が最高の意志の疎通をするためのなかだちである。
・じかに受ける啓示によって神と意志の疎通を行う形態へ戻れば、奇跡の必要はなくなる。
言葉の定義とかなくいきなり神とか霊とか聖霊とか出てくるのでよくわからないのだけど、上記を見る限り、秘教で語られているように、世界は界層構造になっていて、本当の自分は「からだ」ではなくて「霊」だという考え方のようですね。
2.啓示と時間と奇跡
啓示と奇跡の違いに関して次のように書かれていました。
・啓示はあなたを神と直に結びつける。奇跡はきょうだいと直に結びつける。
・啓示はただ経験するようにと仕向けるに過ぎないのである。その一方、奇跡は行動するようにと仕向ける。
わかりやすいですね。
奇跡は同等である者どうしの間での愛のしるし、啓示は畏敬の念を抱く主からいただく愛、ということですね。
でも、啓示(Revelation)というものは言葉では表現しきれないものとのことです。というのも、啓示とは言葉に表せない愛を経験することだからだそうです。
この1-2でいきなり、「私」という登場人物が出てきたのですが、これ誰??ヒントは下記です。
・あなたは私の下にいて、私は神の下にいる。
・私がいなければ神と人との間の隔たりが大きくなってしまう
・私は一方ではあなたの兄、その一方では神の子
・私は御子としての身分をもつ者の担当者
・私は聖霊と親しい
なぞなぞかよ!て感じですが、「私」はキリストのことなのかな?
秘教で言うところのハイラーキーだけど地上で人間と暮らしている、人間との連絡係担当の新米ハイラーキー(笑)のことかな。
時間と奇跡に関しては次のように書かれています。
奇跡というものは時間の必要性を最も少なくする。経度とか経線のようないわば横の広がりにおいては、御子としての身分に属するものたちは平等であると認めようとすると、それにはほとんど限りがないほどの時間が必要になりそうだとさえ思える。しかしながら、奇跡は必然的に横に知覚することから縦にに知覚することへと突然移行する。
ちょっと難しいですね。
奇跡は、学んで修得するには何千年かかるかもしれないことの代わりともなることを、時間を壊すことによってそれを縮められるようにする性質があるようです。
3.贖罪と奇跡
1-3の最初に「私は贖罪の過程を担当している」と出てきました。
「私」はイエス・キリスト説濃厚ですね。(超手探りな読み方ですみません)
一般的な日本人としては「贖罪」という言葉には馴染みがありませんが、イエス・キリストが十字架にかかることで全人類を神に対する罪の状態からあがなったあれがそうですよね。一般的には「犠牲や代償を捧げて罪をあがなうこと」という意味ですね。
贖罪はすべての誤りをもとどおりにし、恐れの源を根絶するそうです。
4.暗闇からの逃避
暗闇から逃れる方法について下記のように書かれています。
第一に、暗闇は隠すことはできないと認めること。普通これには恐れが必然的にともなう。第二に、もしそれができるとしても、隠したいと思うものは何もないと認めること。このようにすれば恐れから逃れることができる。自ら進んで何も隠さないようになれば、霊的交わりへと快く入るようになるのみならず、平安や喜びを理解するようにもなるだろう。
誰でも隠したいことってありますよね。「お天道様は見ている」とか言われてきたし、暗闇は隠すことはできない、と理解することはできても、「隠したいものなど何もない」と言うのは難しいですね。
「暗闇」が何かに関しては下記のように書かれています。
暗闇とは光が欠如していることだが、それと同様に罪とは愛が欠如していることである。暗闇自体にはそれだけにあるといえる特性など何もない。それは「欠乏」を信じるという一例であり、この信念からはただ誤りが生じるだけである。
人間は創造されたときに、だれもがあらゆるものを与えられたのであるから、「欠乏」とは無縁のはず。それを思い出すことができれれば、暗闇とも無縁になるということかな。
5.完全なすがたと霊
「奇跡」と「からだ」は似ているらしい。
どちらも、それが必要でなくなることを目指している。
つまり、「直に意思の疎通をおこなう」という霊の本来の状態に達したとき、「からだ」も「奇跡」も役立たなくなるということ。
そして、究極的には神の家族は一人残らずこの「本来の状態」に戻るべきだとしている。神の子はみんな平等でみんな特別だから。
6.必要性についての錯覚
「必要性」。例えば何かを学ぶとき、それを学びたいと望み、また自分にとって必要だとなんとか信じない限り、身にはつきません。
でも神の創造には不足するものなどないので、必要性を感じる限りは、それは自分が作り出した錯覚の世界であるようです。
神から分離しているとの思いが、自分は不足していると思わせる元であり、正す必要があるのはただこの「分離感」であるようです。
7.奇跡への衝動の歪み
自分の歪んだ知覚が、奇跡を行うのに役立つ衝動を自覚しにくくしているようです。
でも、自分はまだ洞察力を発揮することはできないので、神の御愛はからだとからだを通じて表現されなければならない。
自分の知覚を広げるのを助けるためにからだを使うのが一番いいだろうし、そうすることで肉体の目では不可能な本当の洞察力による心像を見ることができるようになる、とのこと。
「からだ」は最終的には必要なくなるものだけど、その過程では役立つもののようですね。
間違った知覚から抜け出し、自分が創造されたのは、「善なるもの、美しいもの、聖なるものを創造するため」だということを思い出さねばならない。
第1章終わり!
かなり手探りで読み進めていますが、ACIM意外と?面白いですね。
秘教に当てはめて考えられる部分もあるし、ちょっと違う部分もある。
そして、謎の「私」ですが、やっぱりイエス・キリストのようです。
今更ですが「ACIM」をウィキペディアで調べたら、下記のように書いてあったので、一人称はイエス・キリストということで良いみたい。スッキリ!
アメリカ人心理学者ヘレン・シャックマンが、イエス・キリストと思われる内なる声を聞いて書いたとされる、英語のスピリチュアリティ文書である
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