見出し画像

ACIM第2章の読解

第2章は下記のような目次になっています。

第2章 分離と贖罪
    1.分離の起源
    2.防衛としての贖罪
    3.神の祭壇
    4.恐れからの解放である癒し
    5.奇跡を行う者の役目
    6.恐れと葛藤
    7.原因と結果
    8.最後の審判の意義

1章の読解を先に読みたい方はこちらをどうぞ。

では、第2章行きましょう!

1.分離の起源

「分離」とは何のことを言っているかというと、創造主(神)と自分との分離です。

神は人間を自分に似せて創造しました。わたしたちは生まれながらに神と同じように満ち足りたすがたに創造され、誰一人それを失うものはいないというのに、それを忘れてしまっている、それが「分離」の状態です。

その分離がいつ始まったかと言うと、エデンの園でアダムが「へびの虚言」に耳を傾けた時だとのことです。

そこで聞いたことはみな偽りだったのに、誤って知覚したため、真実でないことを信じ続けることになってしまいました。

聖書には「アダムが深い眠りについた」と書いてありますが、アダムが目覚めたことを言及するところはどこにもないそうです。

この世はまだ、包括的な目覚めや再生を少しも経験していないということです。全人類はみな眠っている状態ということなのですね。

そして、夢から覚めるための光明を投ずる知識があなたを自由にするだけでなく、たしかに自由だということをあなたにはっきりと見せてくれる、とのことです。

2.防衛としての贖罪

贖罪の原理は愛であり、贖罪が愛のなすわざでした。
分離以前には愛のなすわざは必要なかったので、贖罪とそれを完了するのに必要な条件を計画されたのは分離以後のことです。

分離の後、誤って使われることのない完全で申し分のない防衛を必要としたわけです。

贖罪はいわば誠心誠意したがうと決心することです。

奇跡が贖罪という防衛力であなたを本当に擁護するのであり、自分は安全だと確信を持てるようになるにつれて、あなたは自分がきょうだいであり御子でもあると分かってきて、他の人たちを擁護するという、生まれながらの才能を自分のものとするだろう、とのこと。

3.神の祭壇

だれもがみんな贖罪を受け入れるのは、ただ時間の問題のようです。
あなたは一時逃れることはできるし、途方もなくぐずつく(笑)こともできるが、御創造主から完全に離れることはできないのです。

御創造主は、私たちが「誤って創造する力」に限界を定めているそうなので、結局はだれもが、「もっといい道があるはずだ」と気づき始める、という仕組みのようです。

この「気づき」が究極的には霊的洞察力を再び呼び覚ませることになり、それと同時にからだの目で見ることを当てにしたり期待しなくなるとのこと。

からだを「聖霊の宮」として知覚するのが第一歩、
次の段階では、聖霊の宮とは建物を指しているのではなく、本当の神聖さは内なる祭壇にあり、そのまわりに建物を建てることだと悟ること。

贖罪には申し分ない効力があるからこそ、内なる祭壇の中心となるにふさわしく、そこで分離を元通りにし、心を完全なすがたに回復させるとのことです。

4.恐れからの解放である癒し

癒しとはすべて本質的に恐れから解放されることを言います。
癒しを理解できないのは自分が恐れているからなのです。

奇跡は手段であり、贖罪は原理であって、癒しがその成果だと言えます。

奇跡が持つ効果を最大限に達成するには、受け取る者が恐れを感じることなく理解できるような伝達手段で表現されなければなりません。

奇跡が目指すことは意志の疎通を行う段階を上げることであり、恐れを増すことによって段階を下げることではないのです。

5.奇跡を行う者の役目

奇跡を行う者は、「解放にともなう恐れ」を十分に理解する必要があるとのことです。

解放とは何のことかと言うと、間違って創造した世界からの解放です。
今目に見えている世界や、「自分」が肉体だと思っていることが幻であることを悟ることですね。

今まで信じていたことを放棄することになるので、そこには恐れが付きまとうのだと思います。心から「真理はここにはない」と思えないと移行することは難しいですよね。

物質的な世界の誘いに「弱い」という感じがしつこく続く限り、奇跡をおこなおうとしないほうがいい、とのことです。

でも、奇跡を行う気持ちの現れ自体が奇跡であり、奇跡を行う気持ちがあるとは心が正しい状態にあることだそうです。奇跡を行おうとする気持ちが適切に働いていて、準備ができているのだということを絶えず信頼し続けることが大事なようです。

自分自身が贖罪を受け入れれば、あなたの心はただ癒えるだけとなり、自分の心に潜在するどんな破壊的な力をも否定し、純粋に建設的な力をそれに取り戻させることができる。それによって、他人を癒せる立場になるとのことです。

6.恐れと葛藤

「恐れ」がなにかと言うと、からだについての思いを心の段階へと上げてしまったことを示しています。すべては神が制御してくださるのだから恐れる必要は何もないのに、その制御力から離れて自分に個人的な責任があるように感じてしまう。これは明らかに段階を混同していることになります。

恐れを感じるときは、間違って選んでしまったということ。
変えなければならないのは自分の心であり、振舞いかたではない。

間違っていることを元通りにするための訂正の過程が下記です。

1.まず、恐れていると知ること。
2.恐れは愛が欠けているとき生じる。
3.愛が欠けているとき、そのただ一つの療法は完全な愛。
4.完全な愛こそ贖罪である。

ただ療法が必要だと認めるだけでは、恐れを抱き続けますが、その療法を受け入れ次第、それまでの恐れを全く感じなくなります。こうして真の癒しが起こるのです。

7.原因と結果

恐れから解放して欲しい、と神に求めることは間違ったやり方です。
本当は恐れなど存在していないのに、自分はただそれをわかっていないだけなのですから。それを理解せずに恐れだけ取り除くことは、原因と結果という基本的法則を勝手に変更することになります。

実際のところ、「御原因」とは神のことを適切にいいあらわす用語であり、「御結果」とは神の子のことを表しています。
神が創造なさったものはすべて神の御子であり、ひとりひとりが身分全体にとって絶対に必要な部分なのです。しかしながら、数ある部分のどれかが欠けている限りこのことが不明瞭となります。だから御子としての身分に属する部分がみな元に戻るまで、究極的には葛藤が解消されることはありません。

こうした状態を訂正するのが贖罪です。
本当に打ち勝つ方法とはただひとつ、愛によってであるのです。

8.最後の審判の意義

最後の審判といえば、世界の終わりに天国行きか地獄行きかを選別される、みたいなことですよね。

「最後の審判」と聞くと怖さを感じるかもしれないけれど、それは間違った知覚であるとのことです。

最後の審判は神がくだされる処置だと一般的に思われているが、実際には、神のきょうだいたち(すなわち私たち)が、神の力添えを得て取りかかることなのだそうです。それは刑罰を割り当てることではなくて、むしろ最終的な癒しとなるものなのだそうです。

罰することは心が正しい状態にあるのと全く反対の概念であり、最後の審判が目指すのは、あなたに正しい心の状態を回復させることなのです。

「最後の審判とは正しく評価する過程」と言えます。だれもがみな最終的には、何に価値があり何に価値がないかを理解するようになる、という意味にすぎないとのことです。

第2章終わり!

人間はアダムの園でのりんご事件(?)以来、「分離」の状態にあり、ずっと眠ったままの状態ということなのですね。

私たちは全員目覚める運命にあるようですが、目覚める方法をACIMで教えてくれているという感じですね。

最後の審判についても知らなかった解釈が出てきて面白かったです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?