同調圧力(キャス・サンスティーン)  日本だけではない

同調圧力は、日本だけではなく米国など他の国でもあるという。
著者はハーバード大ロースクール教授で連邦最高裁判所や司法省勤務もあるキャス・サンスティーン氏だ。
日本では、なぜか空気を読んで同調すると言われていた。
理由は日本人の特性か、で終わっている。
著作では同調は、心理学者の社会実験で17か国で存在が確認されているという。

これを知り筆者としては霧が晴れるような心境だ。
太平洋戦争の開戦の決断を調べているが、その決断で空気が関係しているという話があり、これは日本人の特性だといわれて先に進めなかった。

同調圧力として、①他人の意見に単に同調することや②先行する少数意見に次々と同調していくカスケード、③同じ考えを持つ人の集団が極端な考えに至る集団極性化なども明らかにしている。
いずれも問題によっては誤った考えが通り、時としては大惨事になることがある。

カスケードは興味深い研究がある。ダイカン・ワッツと共同研究者が2006年に発表したものだ。

音楽ダウンロードに関する秀逸な研究だ。
新人バンドによる72曲のうち1曲以上を試聴・ダウンロードできる人びとによって、対象群を一つ作る。
各人は、ほかの人たちがどれをダウンロードしたかも、どれを気に入ったかも知らされない。
社会的影響の程度を確かめるため、ワッツらはこのほかに8つの集団も作った。
これらの集団では、各曲を自分たちの集団のうちの何人が今までにダウロードしたかを知ることができる。
これは社会的影響と消費者の判断との関係を調べようとしたのである。
もし他人の行動を知ることができたら、最終的なダウンロード数に生じる差異は大きいのか。
答えを言うと、差異は非常に大きかった。
(対照群で確認されたところの)もっとも劣った曲が最終的に最上位になることはなく、もっともすぐれた曲が最下位になることはなかったものの、
それ以外のことは基本的には何でも起こり得た。
ある曲が初期段階で一気にダウンロードされる利を得ると、その曲はすばぬけて好成績を残すことができた。
もしそのような利を得ていないと、ほぼどんな曲でも不首尾になることがあったのである。
のちにワッツらが実証したように、結果はきわめて簡単に操作することができてしまう。
彼らの実験によって明らかになったのは、人はほかの人がしていることや好んでいそうなことから学習するため、早期における人気は長期的な効果をもちうる、ということであった。
      

(「同調圧力」キャス・サンステティーン 以下同じ)

なにやらヒットチャートの秘密の一端が見えてくるようだ。
しかし、このようにカスケードは確たる判断で選ばれたもので起きるわけではない。
きっかけは先行する人たちの考えや行動なのである。
カスケードは同調と同じく、それ自体は問題とはならない。
本当に問題なのは、カスケードが生じると、人びとが他人に有益となるような情報を公にしないことだという。
その結果、個人としても公共・民間を問わない集団としても、時として大惨事をもたらすような間違いをおかしうる。

つぎは集団極性化である。
討議している集団内で何が起こるのか。
集団内で歩み寄りが起こるのか。個々の構成員がもっている傾向の真ん中に向かうのか。
集団極性化の現象は、これまで米国やドイツ、フランスを含む12か国以上の国々が関わる何百もの研究で明らかにされてきたという。

集団極性化は、社会的に不変なものではない。
それは集団の構成員がもつ何らかの特徴や状況によって増減しうるし、除去されることもありうる。
第一に、過激派はとくに極性化しがちである。
彼らが考え方を変えることは十分ありえるが、おそらくはさらに極端に変えるだろう。

第二に、集団の構成員がアイデンティティを共有し連帯が強いと考える場合、強い極性化が生じるだろう。
その理由の一つは、人びとがある要因(たとえば政治や宗教に関する信念)で結びついていると感じる場合、反対意見は抑えられるだろうからである。

第三に、時間が経つにつれて、構成員が物事の進んでいる方向を拒否して集団を去る「脱退」によって、集団極性化は強められうる。脱退が広がると、極端な傾向はひどくなるだろう。

第四に、集団の一人以上が事実の問題について正しい答えを知っている場合、集団は正しい方向に移動する傾向がある。
もちろん、これは必然的なものではない。
ソロモン・アッシュの同調実験が示しているのは、社会的圧力が単純な事実の主張に関してさえ間違いを導きうることである。

第五に、非極性化が見られるのは、当該集団が両極端から等しく選び出された個人から構成される場合である。たとえば、もともと慎重さを好む5人がもともと危険を冒すことを好む5人と一緒にされる場合、集団の判断は中間地点の方へ向かいうるのである。

同質な集団での議論は、極端な考えに向かうという。
日本の歴史でも、何やらよくあったなと納得される結論である。
集団の構成員を両極端の考えをする人を同数の選ぶと、極端なことは起こらないという常識的な話は、集団極性化を考えるとき大事な視点である。

最後に法律家である著者キャス・サンスティーン氏が、最も言いたかったのは合衆国憲法の諸制度は同調やカスケード効果、集団極性化に対する懸念を反映したものだという。
起草者たちはその点を明確に懸念していたという。

その危険性と戦うため、憲法はそうした過程から生まれる思慮に欠けた判断に対して広範に抑制するものを作り出した。
一つのわかりやすい例は、二院制であり、それは一方の院 ー 起草者から見てもっとも可能性があるのは下院 ー が短期的な情念や集団極性化によってさえ支配されるような状況に対する防御壁として設計された。
確かに、カスケードは上院と下院を隔てる境界を越えて生じうる。そして、そのような横断は実際に起こる。
しかし、両院の構成や文化の違いは、無軌道なカスケードに対する大きな防御壁となる。

抑制と均衡のシステムの多くの側面は、基本的に同じ観点から理解することができる。
権力の分立それ自体が、カスケード効果や集団極性化によって政府が恐ろしい方向に導かれる可能性を減じさせる。
立法府と行政府が一致して法を制定し施行するようなことがなければ、法によって市民を圧迫することはできないため、圧政に対する強い防御壁があることになる。

大統領はある法に賛成し、それを激しく弁護するかもしれないが、立法府はその制定を拒みうる。
加えて、制定された法律は署名のために大統領に提出する義務があるため、立法府内のカスケード効果は避けられる。
そこで、大統領は自身が反対する立法を拒否する権利を有しているのである。

また、議会がそれを制定し大統領が執行したとしても、裁判所がおそらくは違憲判決を出すことで、介入しうる。

連邦制自体が多様性の原動力だったし、今もそうあり続けている。つまり、それは別々の文化をもった多様な主権者がいるという形式をとることで、「回路遮断器」を作り出すのである。
連邦制においては、社会的影響が州によっては誤りを生むかもしれず、実際に州はカスケードに陥りうる。
しかし、別々の制度が存在することで、誤りの拡散には抑制が働くことになる。
恐ろしいことをする州があるかもしれないが、それでもそこの市民は他の州に逃れることが可能である。
市民が「脱出する」ことができるという事実それ自体が、抑圧的ないし愚かな立法行為に対する防御壁を提供しうる。
もちろん、合衆国憲法によって言論の自由が明白に保護され、結社の自由が暗黙裡に保護されていることは、多様性や異論の余地を確保するのに役立つ。

明治憲法は合衆国憲法と比べるどうであったのだろうか。
ポイントになるのは、多様性をもつことができることや言論の自由はもちろん少数意見をどうくみ上げられるかではなかろうか。


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