春秋左氏伝:開戦に先立つもの

「礼とは何か」(桃崎有一郎)の作者が、礼について研究するきっかけになった本が「春秋左氏伝」であったと知り読んでみた。
礼の知識の宝庫であるという。

「春秋」とは、中国の晩周時代の魯国の年代記である。
孔子の手を経って成ったものとされている。
左氏伝はあまりにも簡潔に書かれている「春秋」の注釈書である。
ときは下剋上の世であり、魯国の年代記であるが、
10か国が登場し、そこには覇を競った様が記されている。

その一節で、気になった箇所を拾い上げると次の通り。

開戦に先立つもの

晋の文公は、亡命生活を終えて本国に帰ると、人民の強化に専念した。
そして2年たつと、いよいよ天下の制覇に乗り出そうとした。
そのとき子犯は、
「人民はまだ義の何たるかをわきまえず、
その生活は十分落ち着いたとは申せません」と、これをいさめた。
そこで文公は、外交政策として周王の地位を安定させ、
内政面では人民本位の政策をとって民生を安定させた。

文公はこれでよしと戦いの準備にかかろうとしたが、
子犯はふたたびいさめた。
「まだいけません。人民はまだ信の何たるかをわきまえておらず、
たがいの信頼に欠けております」
そこで文公は、*原の戦いで兵士たちに信の手本を示した。
その結果、人民の間の商取引は正当に行われるようになり、
だましあいは影をひそめた。

文公は今度こそと思ったが、子犯はまだうなずかなかった。
「いえ、人民はまだ礼の何たるかをわきまえておらず、
目上の者をうやまう心に欠けております」
そこで文公は被蘆に兵を集め大演習を行って礼の手本を示し、
目付役を設けて官位を整えた。
この結果、人民は目上の言葉を素直に受けいれるようになった。

文公が天下の制覇に乗りだしたのは、このような準備を終えた後であった。
この後、晋軍は穀の楚軍を追い払い、宋の包囲を解かせ、ついで城濮の戦いで楚を破り、文公は天下に覇をとなえることになる。
すべて、文公の人民の教化に力を注いだ成果なのである。

*原の戦い・・・・文公は兵士たちに戦いを3日間で終わらせると約した。期限が来ると、落城寸前であったにもかかわらず、引き上げを命じ、兵士との約束を守った。

(中国の思想 第11巻 左伝)

総理大臣の支持率が20%台まで下がっている。
リーダーが支持を得るかどうかは古今を問わない。

礼はいざしらず、信を得るのは政策の連呼ではない。
信の手本を示さねばならないのに、
政治家がその資格を問われている昨今である。

左伝は、忘れそうな人間としての基本を教えてくれる気がした。

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