「戦時期日本の精神史」鶴見俊輔:天皇中心は条件反射

明治の設計者たちが、西洋のキリスト教を範に、天皇中心の国家宗教を採用した話は、このブログの明治憲法の話で取り上げた。

今回は鶴見俊輔氏が1979年にカナダの大学で語られたものを取り上げたい。
鶴見氏は大正11年(1922年)生まれで、まさに戦時期の日本を目のあたりにしており、それに戦後30年経過して外国で発信しているものだ。

模様替えした国家宗教においては、神道は西洋諸国におけるキリスト教にきわめて近い役割が与えられており、その結果色濃く一神教としての性格をもたされている。
こうしてここに過ちを犯すことのない天皇という絵姿が現われる。
その絵姿は明治時代と大正時代においては比喩としての性格を与えられていた。
それは日本の国家が国家宗教の密教の部分に習熟した元老・重臣層と高級官僚とによって動かされていた時代のことだ。

明治政府によって採用されたこの政治思想は、国民の心のなかに順序よく植え付けられていった。
善悪の価値判断の基準は天皇によって発表される勅語に基づくことになった。
明治維新以後において軍人勅諭と教育勅語とが最も重大な文献である。

(戦時期日本の精神史:鶴見俊輔 以下同じ)

そして具体的にはどのように徹底されたのか。

たくさんの子どもとたくさんの新兵たちが滑らかに勅語を暗誦できなかったり、スラスラと勅語に出てくる漢字を書けなかったからといって、殴られたものである。
その種の儀式は、日本の国民全体に同一の条件反射を植えつけた。
・・・
このことが近代日本だけあった特有の現象であると私は思っていない。
神政政治が行われているところでは、どこでも似たような政治上の慣行があったにちがいない。
明治以後の政府には、その民主政治としての性格があるとともに、このような神政政治としての性格があり、いかに両者が組み合わさっていたか、織りまぜられていたかということに目を向ける必要がある。

そして神政政治の部分と正面から向き合わなければならない時がくる。
1929年の世界恐慌のもと、それから出口をもとめて1931年の日本の満州事変が始まった時代だ。
軍人勅諭は1882年(明治15年)、教育勅語は1890年(明治23年)に出されている。1931年までにそれぞれ49年、41年が経過している。

同一の条件反射に慣らされた人々が一つの有機体として動きうる状態に達していた。(鶴見俊輔述)

日本が日米戦争に向け本格的に動き出した時だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?