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気配り

文章教室の課題のアンチコラムを書いてみたのでnoteに記録。


私は自分が「周りの人への気配り」が得意ではない人間だという自覚がある。相手の気持ちを察して動くとか、周りの空気を読んで調和を乱さないというようなことができると「気が利く」「気配りができる」と評価されるが、私はどちらも苦手だ。

私が気配りが苦手なのは、人の気持ちなどという想像の域を超えないものをああでもない、こうでもないと考えたところで、結局はわからないと思っているからだ。そんな、いつまでも結論の出ない状態が苦手なのだ。はっきりと「どっちがいいですか?」と聞いたほうが早くて確実じゃないか、自分の勝手な思い込みで、相手に良かれと何かをしても、相手にとってはどうでもよかったり、逆に迷惑だったりすることは少なくないだろうと思っている。こんな風に考えているので、「困ったことがあったら遠慮なく声をかけてね」と本気で思って伝えるものの、相手から声をかけられなければ何もしないので、これでは「気配り」としては失格なのだろう。

何かをする時に「嫌だという人がいるならやめておこう」みたいなのも苦手だ。人の価値観や考え方なんて違って当たり前だから、嫌だという人がいたら、その人はやらなければいいだけのことじゃないかと思ってしまう。満場一致でないと気が済まないという空気に押されて、本当は嫌なのに、嫌と言ったら煙たがられるから言えないなんてことになるし、最大公約数的な、当たり障りのない着地しかできない。「これ、嫌なので、私はパスしまーす」「オーケー。じゃあ、またなんか他のことを一緒にやろう」と気持ちよくパスできればいいのにと思うし、これが許されるコミュニティはとても居心地が良い。

お互いの考えていること、感じることをはっきりと目の前に出せば、当然ながら、それが同じであるとは限らない。お互いの意見が同じでないことで、和やかな空気が壊れたり、結果として決別したりすることが起こる可能性はある。日本の文化では、こんな風に和を乱し、波風を立てる「はっきり」は、野暮で気が利かず、ともすれば、反旗を翻していると取られかねない。だから、私は、ほんとうは「はっきり」したい時でも、そんな空気を感じると、面倒になって、お茶を濁す。そうしてお茶を濁すとその事がどうでもよくなる。こういうことが続くと人生がどんどんつまらなくなって、弱っていく。

「はっきり」に抵抗がある人たちは、和やかな空気が壊れたり、誰かと決別したりすることに深く傷つく人たちなのだろう。その気持ちも想像できるのだが、どうか、自分と相手が違うことを恐れないで欲しい。道を分かつことで自分が拒否されたと思わないで欲しい。私は人が幸せになるためには、人それぞれの価値観が周りに受け止められることが重要だと考えている。それは、自分の考えが相手と違っても問題ではないという状況の上にしか成り立たない。だから「私はそうじゃないけど、あなたはそう思うんだね」と同意はできなくても受け止めようと思うし、別々の道を進むことになったとしても、それは、より自分を活かせる方向へ進むこととしてお互いにエールを送り祝福したい。

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