見出し画像

『二つの “見る” 』

公園で遊ぶ我が子を
「ベンチに座って見つめる親」

このときの
「見る(見つめる)」には
無意識に2つの視点があるという

①『見張る』:厳しい目線
 子どもが危険な行動をしていないか“見張る”

②『見守る』:優しい目線
 子どもの成長を“見守る”

子どもとスタッフ

『見張る』という厳しさも
『見守る』という優しさも
 我が子を思えばこその親の想い

子どもが安心して遊べるのも
新たなことにチャレンジできるのも
 この「二つの見る」
 いつでも対で存在していなければならない


さぁ
社内に目を向けてみよう

例えば
新しい仲間を招き入れる時
 こういった「二つの見る」
 意識しているだろうか

オリエンだマニュアルだ
教育だOJTだ・・・

出来るだけ最短距離を歩めるよう
大きなエラーに出くわさぬよう
 そのルートを教える ←『見張る』

一方
誰もが当初感じた
「不安」や居場所のなさ

その背景や意味や目的等の全体像を端折り
個々の特性や強みに寄り添うことを
 意外なほど疎かにしている

そしていつしか
 駄目じゃん「あいつ」
 ・・・的なラベリング

それは最も避けたい
「結果の質」のスタート

思考も行動も後ろ向きとなり
「ほれみたことか」と
 よからぬ結果の質へと負のスパイラル


間違っても
 緩くするとか
 待ってあげるとか
 そういった“甘さ”を言いたいのではない

成長途上に必要な
 時間軸や角度や濃度やタイプや・・・

我が子なら少し許せる(はずの)
『見守る』といった優しい目線は
 忘れがち・・・ではないのかな

家族じゃねーし

いやいや
親子や家族じゃないし
仕事をなめてるんじゃないですか!?
・・・とお叱りを受けそうですね

はい   仰る通りです
 生産性や効率や自主性は
 メチャメチャ大事です(承知してます)

が故に
もしも多様性(多面性)を受け入れるというのなら
個々のスペックや
あるかも知れない強みを生かしたいというのなら

『見守る』といったスタンスを
 忘れたくないですし

少しだけ
 わかりやすく前面に出して(見せて)
 安心させるという手間も
 必要なんじゃないのかな

3つめの「見る」

我が子を想う親には
もう一つの「見る」があるそうだ
・・・それは『見比べる』

「まわりの子はできるのに
  うちの子は・・・」といった
 比較してしまう目線

真の願いや未来は
「成長」「自己実現」「自立」「自律」・・・
 それなのに
 よその子との優劣を比較してしまう性


あれっ・・
 これってスタッフへの向き合い方と
 似てないですか!?

あたかも
「あなたのため」と言いながら
都合の良い理屈とコントロールによる
「見張ると見比べる」

『見守る』が抜け落ちている感情を
 認めたいし意識したいですよね

差分は大切

矛盾する言い方ですが
時には『見比べる』ことも大事

自身の立ち位置や
差分を把握することによって

嫉妬や卑下する材料ではなく
自身が抱える課題が明確になったりしますよね


そう
立場や立ち位置によって
「見る(見つめる)」に潜む
 角度や粒度を意識してみると

・我が子なら
 少し許せたり  待てたり

・我が子なら
 「見張ると見守る」
 「見比べると見守る」
 対として成立するのに

ビジネスや
日常におけるコミュニケーションでは
 忘れがちどころか
 そんな余裕や懐を
 全く感じない場面に出くわす
 (もちろん自戒を込めてです)


己のパーパス(存在意義)を
模索している今
どうやらその核に置くべきことは
『見守る』なのかもしれないよなぁ・・・
 と思いつつ   もう少ししなります

_196_

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?