2010-6-22 あまりにも、個人的すぎる話
だいぶ昔に書いたものですが、そのまんま載せます。
《再録》2010年6月22日「あまりにも、個人的すぎる話」
月がだんだん満ちてきます。きょうの月は蠍座の月。心の深い深いところに降りていくには、最適なのかもしれません。
もう思い出せないくらいひさしぶりに、涙が出る機会がありました。
なんだかたくさん、いろんなことを思い出しました。
ごくごく個人的な話ですので、表からは隠して、こっそり書きます。悲しかったこと、腹が立ったこと、エピソートがてんこ盛り!!!です。くれぐれも取り扱い注意。
以下の立ち入りにあたっては、ご自身のご判断でお願いいたします。読んで不快な御気分や、体調不良など招いても、責任は取りかねます。
私をとても可愛がってくれていた叔母が居ました。その話をしてみたいと、思うのです。長くて、暗くて、重くて、どうにもならない話です。そして、私の個人的な毒だらけの。
よほど健康で、モノ好きな方以外には、絶対にお勧めしません。でも、もしかしたら、深い深い泥の中には、宝物があるかもしれない。そう思える方だけ、どうぞお進みくださいませ。
… … … … …
叔母は美人で、頭が良くて、本格的な書道をやってて、身体が弱かったせいもあり、結婚は生涯一度もしなくて、子供も居なかった。たぶん、いわゆる霊感、みたいなものがあったらしい。そういうことはふだんほとんど口にしなかったけれど。
私のことをとても可愛がってくれた。叔母と私は、どこか似ているところがある、とみんな言った。そして、あれは2002年だったかな。
祖母と叔母は長らく同居していた。(祖父はもっと前に死去)その頃、身内のトラブルがあって、祖母のアルツハイマーがどんどん進んだ。
叔母は、それを隠して、ひとりで必死に介護をしていた。認知症の出だしの頃って、とにかく大変。本人もまず、自分がなんだかおかしくなっていることの自覚があるし、身内は、まず自分の親がだんだん以前と違う人間になっていくことを事実としてまっすぐに認められない、って当事者はみなさんおっしゃる。
おそらく、叔母の生活も心の中も、地獄のようだったと思う。私はそばに住んでいたから、助けてあげたかったけど、私自身もまた、働き始めて間もない仕事でこき使われてこき使われて… (その3 →★) とてもそんな余裕がなかった。
そんななかで、叔母の肺ガンが見つかった。見つかったときには、すでにからだ中の骨やリンパ節に転移が進んでいて、手術どころか打つ手はなく、余命半年以下だ、と言われた。(告知は正しかった。叔母はその後4ヶ月で亡くなる)
私は一緒に告知を聞いた。医者の説明は、淡々と科学的で、とてもロジカルだった。骨への転移箇所を全部質問して、図解を求めた。頭骸骨、脊柱ほぼすべての椎骨と骨盤、大腿骨…メモを取りきれないくらいの数で、私のノートの字は歪んだ。
病室に戻っても、ふたりとも泣けなかった。「泣いて治るものなら、いくらでも一緒に泣くよね」って、ふたりで、真っ赤な目を見合わせながら、我慢した。
それ以来、私は泣けなくなった。
どんなにショックなことがあっても、泣けなくなった。
入院した叔母は、私以外の人が病院に来ることを断固拒否した。私は、仕事しながら、病院に毎日通った。ときには泊まり込み、仕事のわずかな合間をぬって、通った。
職場のボスに承諾を取った以外、誰にも相談しなかった。誰に相談したって、いまの自分の立場はわかりっこない、と思った。そもそも相談している時間なんてなかった。とにかく動くしかなかった。
事務的なことはさすがに周りの親族に任せたけれど、私は完全に孤独で、完全にひとりきりで責任を背負っていた。肉体的にも、精神的にも、本当に苦しかったけれど、そのあいだには本当にたくさんのことを学んだ。
投薬や治療方針に関する医者との具体的な折衝や、担当の看護士さんたちとのコミュニケーション。医学的な知識。薬学的な知識。ターミナルケアとしての自分の技術の向上。こちらが真摯に向かえば、医療スタッフもまた、通り一遍ではない対応をしてくれた。心から感謝している。
そして、死にゆく人に対して、ものおじしないこと。いっしょに巻き込まれておびえずに、じっとそこにいること。簡単なようで、これがたぶんきっといちばん難しい。
叔母は、それまでの人生の穏やかで自制心のきいた人とは同じとは信じられないくらいにわがままで、完璧主義で、私がかたときも離れずにそこにいることを求めた。
ガンの骨転移は強烈な痛みを伴う、と教科書に書いてある。でも、叔母はあまり痛みを訴えなかった。痛くないのではない。動いただけで骨折するというのに。(でももうなにも処置はできない)あまりにも我慢強すぎた。
そして、肺ガンは容赦なく呼吸を妨げる。ひっきりなしの咳。普通の人が聞いても、尋常でない咳だとわかる。呼吸をすることが、毎日の必死の仕事。
いちばん苦しかったのは叔母だと思うけれど、私もやっぱり苦しかった。疲れていた。
わずかな時間でマッサージに行っても、何も感じなかった。そこでいちばんチカラが強い人に、フルパワーで押してもらっても、何とも感じなかった。私自身も、なにもかもが壊れていたのだと思う。
いよいよ本当に死が近づいていることを感じられるような時期。
当時私にはわりと長く付き合っていた人がいて、その人は私と別れる、と言い出した。なんでもっと早く言わなかったのか。
そのとき、その話をしながら、お湯を湧かそうとしていて、コンロにかけたヤカンが空だったことに気がつかないくらい、私の頭の中は真っ白だった。
突然、ヤカンがぼっ!と、真っ赤な火に包まれて燃え上がった。
ようやく私は、自分が深く深く怒っている、傷ついているのだと、
初めてはっきりと自覚した。毎日があまりに苦しくて、いろんな感覚が麻痺していた。
彼ははっきり言わなかったけど、他の女性ともうすでに付き合っているであろうことに、私は気がついていた。
でも、放ってあったのだ。私にも非はたくさんあったと思う。でも、大変だったのだ。はっきりいって。私が苦しんでいるのを、彼に助けて欲しいとは思っていなかった。
なぜなら私にはときどき、とてつもないアクシデントや災難が起こる。CIDPにかかったことも、そのうちのひとつだ。
そんなの、いちいち共感して理解できる人なんて、そうそういない。はっきりいって、彼はその器ではない、と思っていたんだ。私は。(傲慢だろうか?彼が悪い訳ではない?私の選択ミスのせいか…)
はっきりと立ち去って欲しかった。他に女性ができたんなら、それはそれで結構。
何よりも、そのことに私が気づいていないだろう、と思われていたこと自体が許せなかった。どうしようもなく嫌で嫌で吐き気がした。
私は、人の秘密や隠された領域に敏感だ。わかるのだ。なんとなく。それだけは、いやがおうにも仕方ない。子供の頃からそれは変わらない。
だから、叔母は私を選んだのだ。私はキレイゴトは絶対に言わない。人を傷つけるのを承知でも馬鹿正直で誠実だ。(だからよけいに人を傷つける)本当に感じたことと、本音しか言わない。汚いものを恐れない。だから。
「距離を置きたい」とか「君が大変そうな時期だと思ってたから」とか、優しそうなことを言うのは、彼のエゴに過ぎない。大変な状態にある私を捨てて行くのは、悪者だから。自分は悪者になりたくない。たったそれだけじゃん。
はらわたがねじきれるくらい、腹がたった。呼吸が詰まった。苦しかった。そのとき、自分が何を言ったか覚えていない。私が相手を攻撃するときの言葉はあまりにも辛辣だ。
相手のコンプレックスを見つけるのは、相手の秘密に気づくのと同じくらいに簡単なことだ。そこを一撃で突く。私の言葉は鋭い。相手がいちばん嫌がる部分を斬る。おそらく相当な破壊力だろう。私は本当に嫌な女だ。
言いながら、自分がいま吐いているこの毒が、たとえいつか巡り巡って自分に戻ってきたってちっとも構わないと思った。これまで溜め込んできた分を吐き出しただけ。私の気持ちなんて、おまえなんかにわかってたまるものか。わかったような顔をされることが、よけいに腹立たしかった。
亡くなる数日前、もうだんだん叔母の意識が薄くなってきた時期にようやく、私は家族や親戚の応援を頼んだ。
みんな、おびえていた。そのはず。だんだん弱っていくところは見ないで、
いきなり死を目前にした姿を見たのだから。
死の前日から、呼吸がとぎれとぎれになってきた。機械が大きなアラーム音を鳴らし、医師があわてて飛んで来た。
本人は人工呼吸器の装着を拒否していたので、私はその旨を伝える。医師からは、それでほんとうにいいのかと、しつこくしつこく、なんどもなんども確認される。
その迫力に、親族はみなおびえる。
大丈夫。
前から言っているとおり「本人は、私の意識がなくなったら、あとは彼女(わたし)の判断に全部任せてください、って言ってました」人工呼吸器をつけないのは本人の意思通りです。(確か、そこでサインしたんだったような気がする。確か。あまり記憶がない)
私はみんなで叔母の手足を握ったりさすることを提案した。
触り方をひとりひとりに教える。
手はこうやって握ると、相手が安心するんだよ。脚のカタチはね、こうやって曲げると自然なんだよ。さするときはね、掌はこうやって使うと相手が心地よいんだよ。そうそう。じょうずじょうず。ほらね、呼吸が安定して来たよ。ときどき声をかけてあげて。そうそう。優しくね。世間話なんかじゃなく、自分が素直に感じたことだけを伝えて。
なかなか人の身体を触る機会はみんなない。ましてや、死にゆく人の身体をマッサージするなんて、なかなかない。最初はみんなおびえていたけれど、だんだん上手になって来た。
部屋の空気がようやく和む。(そのときはもう個室に引っ越していた)みんな少しずつ笑顔も出て来た。
叔母はそんな中で亡くなった。最後の最後まで、息することをあきらめなかった。やすらかに、じゃなく、ついに力尽きて、亡くなった。
亡くなる瞬間に、私は彼女の頭から背中をずっと撫でていた。彼女が「生の側から、死の側」に移った瞬間が、私には誰よりも、機械よりも早くわかった。
そんなかんじ。
こんなのもう二度と書くことはない。(と思う)
(しかしながら、永遠に外に向かっては書けない話も、やはりあるんだ)
ここまで書くのに、バスタオル1枚使うくらいに泣いた。
こんなに泣いたのは、いったいいつ以来だろう。
(2015/12/07記)
治療家としての腕を磨くはずだったのに、いつのまにか占い師になっています。どこに行ってもしぶとく生きていたい。