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2009年1月16日 胸の奥の深海2

胸郭が大きくゆがむくらい、持続的な強い圧をかけられて、呼吸が止まるような体験をしたあとの後日談。

そのあとは、別になんともなかったのです。ふつうにご飯食べて、ふつうに話して、ふつうに家に帰った。でも、夜中になんだかただならぬ感じがして目が覚めた。胸が痛い。じわじわと中心から広がる痛みが、持続的に繰り返す。オレンジ色な感じ。カラータイマーでもついてるみたい。あぁ。。。そういえばあんなことしたんだもんね。肋骨か、肋軟骨か、胸骨のどっかがイカれたんだろうな。ま、そんなもんか。

あとは・・・ あんまりよく覚えていないのですが。

「パンドラの箱」というけれど、自分の蓋がぱかーっと開いて、中からいろんなものがだだーっと出てきてしまったような。高熱のとき、夜中の病院にいるとき、などなど、私はわりと簡単にわけわからん状態に入るんですが、そういうのに近い。とにかく、時間も空間も関係なく、果てしなくあちこちに出かけていって、いろんな人に会った、ような気がするのです。(うーん。。。いかにもデンパ系な話だけど、そうなのだ。仕方ない)

目が覚めても、やっぱり痛かった。胸骨全体がじんじんした。(ふつうなら整形外科受診を推奨。私は行かなかったけどね)しばらーく考えてから、私の胸骨を圧してくれた人にメールした。「大丈夫だと思うけど、、、」と書きつつ、実は少し不安だった。

するとそのうち、こんなのが戻ってきた。

人の胸の奥には必ず、それぞれの「見るなの座敷」の扉がある。

「見るなの座敷」とはたとえば、鶴女房のツウが、ケモノの鶴の姿で機(はた)を織っている「奥座敷」です。そこを開けることは、ありえない。こわい。キツい。痛すぎる。だから絶対「見てはいけませんよ」

でも、「見るなの座敷」にこそ、生命の根源的な力が宿っている、と思うのです。ヒトには織れない織物が織れる力。自分の中に眠っているまだ闇の、暗い力、ケモノ力、大自然力…

自分の中の「見るなの座敷」を見つめ、ほどき、それを光の力に変えることができたら…

やられた。。。

いつのまにか、もう引き返せないところまで来てしまったと、思った。なにしろもう、蓋は開いてしまったようだ。「パンドラの箱」に、最後まで残るのは、希望、だったっけか。

さわることって…

じぶんは人にさわることを生業としている。人よりずっと、誰かにさわることについていつもいつも考えていて、それでお金をいただいている。それでも、このときあらためて、なまなましく、はっきりと気がついたのです。

さわることで、境界が変形したり、破れたり、融解したり、するんだ。いちど形が変わったら、もう元通りではいられないんだ。さわることは、境界を動かすこと。向こう側に手を伸ばすこと。自分が侵入するだけでなく、向こう側から圧倒的な力がなだれこんできて、自分なんてあっという間になくなってしまうかもしれないんだ。境界の向こう側は聖であり、穢れであり、(だから性や死の世界でもある)ときに禁忌に触れることだってあるかもしれない。

そういう認識と、覚悟みたいなものが、この頃からわずかながら・・・自分の中に生じていたような気がします。

身体感覚と言葉の相互交流・・・ これこそがいちばんむずかしいけれど、いちばんたいせつで、いちばん美しい、人間にとっての「動き」ではないかと思います。(中略)

いずれにせよ、苦しみや恐怖の向こう側まで出て、自分をスルッと反転させなければ、決して新しい景色は見えてこない。

それまでずっと、自分が主観的に漠然と感じていただけの、曖昧な身体感覚、とくに触覚の世界を、少しずつでもいいから、他の人にも伝達可能で、少しは共有できるような表現やコトバに置き換えていってみよう、とこのころから考えるようになりました。すこしずつ、すこしずつ。

それから、もうずいぶん時間が経ちました。楽に生きるなら、あまり余計なことは考えたりしない方がいいよね、とかなんとか、我ながら日々ツッコミいれながら、まだまだ私はあいかわらずのまま、です。器用なんだか、不器用なんだか。どこまで行っても、私はきっと手探りで歩くしかないんですね。

2015/12/07 追記

身体を通じての体験には、非常に強い影響力があって、だからこそ大切であり、侮り難い。たぶん、こうした体験を通じて、宗教的ななにかや、スピリチュアルと呼ばれる世界につながっていく人は少なくないだろうと想像しています。

適切な指導者につくことが大切です。そして、また指導者も絶対ではなく、ひとりの生身の人間であることを忘れてはいけない。身体を通じた強烈な体験は、簡単に依存性を呼び起こします。これは本当に重要なことです。どんな種類であれ、気持ち良さ、怖さ、不快さ、とにかく感覚の「過剰」はよろしくないことです。

わたしは、いっぺんにあまりにも人を気持ち良くさせるような技術やワークに対して、懐疑的な立場です。でも、そういうものが世の中では求められ、よく売れます。それは事実です。危ないことです。ほどほどにしておくのがよろしいです。

多くの人は「快」を求めるけれど、そもそも、気持ち良すぎる状態というのは生命にとっては異常事態です。多幸感には、そればかりを繰り返し体験したくなる中毒性があります。もちろん強烈すぎる体験も同じです。もちろんそれが悪いとは言いません。そのくらい強い感覚をもってしないと突き抜けられない壁はあります。

しかし、過剰摂取はダメです。悪酔いしますよ。

治療家としての腕を磨くはずだったのに、いつのまにか占い師になっています。どこに行ってもしぶとく生きていたい。