86年の人生の唯一の悔い~玉上常雄の生涯<父への感謝を込めて>
自分の会社を創業し、猛烈に働いていた27歳の頃、徹夜明けで家に帰ってきた常雄は、大きなリュックを背負い登山服姿で出かけようとする弟の三郎と、ばったり出くわした。
「あれ、また山に行くのか?」と常雄が聞くと、「うん、谷川に行ってくる」と三郎。「そうか」と常雄は三郎を見送った。これが7歳違いの弟との最後の会話になった。
三郎は、その数時間後、谷川岳で滑落死したのだ。三郎が出かけた日の夕方、「息子さんが谷川の一ノ蔵で遭難しました」と警察から電話があった。捜索は難航し、滑落のため生存は難しいと言われた。気が狂ったように叫び悲しむ両親に代わり、常雄は捜索のためにヘリコプターを手配し、そして三郎の亡骸を家に連れて帰り、通夜と葬儀を取り仕切った。
その年の暮れ、昭和36年12月の日付けで書かれた喪中はがきは常雄の名前で送られた。元気に出かけた数時間後に、命が尽きる。常雄は、人の“生”の尊さを思い知った。
「徹夜明けだったから、警察から電話があったときは起き抜けで、夢を見ているかと思った。夢だったらいいと思ったけど、夢じゃなかった。あれが最後になるなんて思わなかった…。」
1935年(昭和10年)、250年続く商家の長男として、常雄は生まれた。母の好江に男兄弟はいなかったため、家の存続のために結婚して婿養子をもらい、常雄を産んだ。江戸時代には桐生の主産業である絹織物やその染料を商いとし、好江の親の頃から薬問屋をはじめた。
好江は親の言う通り薬科専門学校(のちの薬科大学)に行き、薬剤師になり商売を広げていった。10代目になる常雄も、好江の大きな期待に応えるために、薬科大学に進んだ。望もうと望まざると、当時はその進路しか選択肢しかなかったのだ。
しかし常雄は、家業をすぐに継がなかった。薬剤師の妻をもらい、妻に家業の薬局を任せて、自分は医薬品卸の会社を創業した。高度経済成長に伴い、医薬品の生産は順調に拡大し、多くの企業の医薬品産業参入が続いた。
昭和50年~景気が上向くなか、常雄の会社は、従業員も数十名となり、製薬メーカーと病院や薬局を商売相手に事業をどんどん拡大していった。一方、家業の薬局は安売り店などの台頭で経営が厳しくなっていった。
「おふくろの期待どおり、10代目として跡継ぎとして、薬剤師にはなった。でもすぐに家業は継がずに、自分の会社を作って、その経営にまい進した。そのうち薬局の経営はどんどん厳しくなり、結果、よかったと思う。高度経済成長で社会やビジネスは大きく変わった」
常雄は、3人の娘に恵まれた。会社の社長として懸命に熱心に仕事をして子育ては妻に任せきりだったが、充実した日々だった。
しかし好江は、11代目になる男子が生まれないことに苛立ち続けた。好江の期待は、常雄の長女が薬剤師になり、薬局を継ぎ、婿養子をもらうことに向けられた。しかし長女は薬剤師になったものの、恋愛結婚し、嫁いで行った。常雄が長女の結婚を許したことに、好江は怒り、常雄を攻め続けた。
「まあな、おふくろの怒りはわかるけど、娘が好きな人と結婚することのほうが、家の存続より大事だと思った。それでよかった。薬屋の商売だって難しくなることがわかっていたから」
常雄は、医薬品卸業界の進む事業再編を見込んで、1995年(平成5年)60歳のときに、創業した会社を従業員も含めて、別の医薬品卸の会社に譲渡した。そしてやっと好江の期待どおり、薬局を継いだ。
すでに多くのドラックストアがチェーン展開し、営業すれば赤字になるような状態だったが、細々と続け、2018年(平成30年)83歳のとき、遂に家業の薬局も自ら決めて閉店させた。
「薬局を継いだのは、おふくろへの最後の親孝行だった。そして薬局は自分の代で終わりにするつもりだった。自分の会社も自分で始末した。始めることより、終わらせることのほうが難しい。家も会社も続けることに縛られると、自由な選択は犠牲にせざるを得なくなるからなあ。娘や孫たちは自由に生きたらいいと願う」
2022年(令和3年)、常雄は享年86歳で生涯を閉じた。戦中に生まれ、戦後の高度経済成長、そしてバブル崩壊後の経済停滞を懸命に働き、昭和、平成、令和と、家や結婚などの価値観が大きく変わる時代を生きた。
これまでの伝統や家の型を砕き、娘たち、次の世代のための新しい道を敷いて旅立った。人生に悔いがあったかと聞けば、きっとこう答えるだろう。
「そうだなあ、わが人生に悔いなしだ。よく働いた、ぜんぶ始末もつけた。でもあるとすれば、谷川に行く三郎に、“帰ってきたら一緒に晩酌しよう。絶対に生きて帰ってこいよ”といわなかったことかな」
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