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多摩ニュータウン50周年によせて、思うこと

2021年3月26日、多摩ニュータウン50歳。

ここに至るまでの多摩ニュータウンの歴史や、多摩ニュータウンの特徴についてはいろいろなところで詳しく書いてあるので置いておくとして。ここでは随想というか、私と多摩ニュータウンについて、つらつらと書いていきたいと思う。

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最初に断っておくが、この後「多摩ニュータウン」と「多摩市」が混在して出てくる。これは一応「多摩ニュータウン50年」ということで何か書いてみようとしたが、書き出すとごっちゃになっているのだ。それもそのはず、厳密には「多摩市=多摩ニュータウン」でもなく、「多摩市は多摩ニュータウンの一部」でもないからである。他人にこの事実を説明するときも、何かと困難である。ただ私がこの2つにルーツがあることに変わりはなく、あえて区別する必要もないと思ったので、このようになっている。

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多摩ニュータウンというものを初めて意識したのは、確か小学3年生。社会科の授業で地元の歴史を学ぶ、そのための副教材のようなものは様々な自治体であるが、私の住む多摩市にも「わたしたちの多摩市」という教材がある。その中に「多摩ニュータウンは、どのようにできてきたでしょう」と問いかけとともに、多摩ニュータウン開発前後の写真、それも同じ場所から撮ったという、一方は里山、もう一方は駅や団地が整然と建つ写真が並べられていた。

最初、その意味が分からないというか、頭の中で全くつながらなかった。それまでは、街(人が暮らす場所)は子供の歯が抜けて大人の歯が生えてくるように新陳代謝をしていくもので、「出現する」なんてことは想像もつかなかったからだ。「多摩ニュータウン」という固有名詞は何となく知っていたが、元来どんなものに対しても本質主義的な考えがあった私はそれ以来、多摩ニュータウンとはいったい何なのか?多摩市とは?郊外とは?街とは?と連鎖的に、ある意味で自分の故郷の「故郷」に、知らぬ間に取り憑かれていくことになる。

中学生になり、授業で環境をテーマにしてオリジナルの多摩市の地図を作るという機会があった。他の人は「タバコのポイ捨て」とか「水辺の生き物」とかをテーマにしていたが、私は鉄道が好きなので、環境と全然関係ない「多摩市の電車見マップ」という自己満足全開タイトルで、市内を走る路線沿いに、今でいう「映える」スポットを探しまくった。当然電車の写真は撮るのだが、探求心が他人より強めな私は、隠れた脇道みたいな気になるところが道中にあると、本来の目的をすっぽかしてそっちにどんどん進んでしまう。

その名も「電車見橋」という橋に差し掛かったとき、橋の向こうに団地があるのが見えた。諏訪から永山、貝取、豊ヶ丘、落合、鶴牧、次々と手を変え品を変え繰り出される様々なタイプの団地に引き寄せられ、気づけば唐木田まで2駅分も、全く車と交差することない遊歩道を歩き通してしまった。敢えてそこを通ったわけではなく、そう仕向けられてしまったというか、それまで文献などで多摩ニュータウンの構造とかいろいろ知っていたつもりだったのが、その時多摩ニュータウンの「意図」を、初めて肌で知ったのである。

大学に入り、「ファスト風土化」に代表されるような、郊外問題について多く取り上げている、とある人の著書を読んだ。その中に、多摩ニュータウンをネガティブに表現する一節があり、かなり衝撃を受けた。駅前のにぎやかな商店街や雑多で怪しげな路地に価値を見出そうとする著者は、パルテノン大通りのシンメトリーな部分とか、ヒューマンスケールからしたら肥大な人工物とか、人がまばらな風景とか、そうした点を挙げて、「郊外の均質性」を説いている。残念とか悔しいとかそういうのではなく、それまで住民という枠に縛られ、多摩ニュータウンの一構成主体として内側からしか評価できなかった私にとって、ああこういう見方もあるのか、と新鮮に感じた。

と同時に、「均質」とは何か?と考えた。多摩ニュータウンは立派な計画都市であり、先に出た遊歩道ネットワークも、豊かな緑もその賜物だ。とはいえ、人間が広大な範囲の計画を作ろうとなれば、いくらバリエーションの幅を持たせようとも、細かい点で似たような景色は出現するものである。住宅も同じ規格で作ったほうが安上がりなので似たようなものがどんどんできるし、ベットタウンとして一挙に開発されれば、そこに住まう人の家族構成や年代は同じようになる。

それはある意味「事実」だが、眼前に表出している「空間」に縛られすぎていないか?「街並みの整然さ=均質」なのか?私の専攻は都市計画でも、建築でも、ランドスケープでもない。だからこそ、違う視点から多摩ニュータウンの「本質」を知りたくなった。

タイミングを同じくして、若者視点で多摩市の魅力を発信する「多摩市若者会議」のメンバー募集案内をたまたま目にし、まちづくりに何となく興味があった私は参加することにした。思い付きで出たアイデアを自分たちで次々と実行していく様を目の当たりにして、興味の対象どまりであった多摩ニュータウンに、初めてかかわる実感が持てた。

参加からの約4年間に私もいろいろ転機があったのだが、それでもこの活動が続いているのは、表層だけでは絶対に知りえない、多摩ニュータウンが内包する多様性に触れることができるからだ。多摩市若者会議のメンバーは、参加動機はかなりふんわりとしている人が多い。それゆえ、各々の多摩に対する印象や思いは様々で、バックグラウンド、性格もそれぞれ違う。活動を通じて出会う人も、面白いことをたくさん考えて、実際にやっている。自分だけの世界で完結していれば、こんな出会いはなかったであろう。

大げさかもしれないが、私の生き方、思考、価値観、多摩ニュータウンという存在あってこそなのである。いろいろな人が多摩ニュータウンに暮らしているが、多摩ニュータウン自身も、誰かのために、50年間、確かに生きているのだ。

ささやかながら、積み重ねてきたもの、関わってきたもの、全てへの感謝と、生まれ育ったものとしての誇りを、50歳の多摩ニュータウンに贈ります。

これからも、どうぞよろしくお願いします。

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