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自覚がないまま鬱病と診断され、治ったことについて

僕には鬱病の罹患歴がある。
数年前の年末に診断され、年始休暇と合わせておよそ一カ月仕事を休み、その期間も含めて半年間抗鬱薬と抗不安薬を服薬した。
症状は服薬を開始しておよそ1か月で寛解し、現在に至るまで再発はない。
仕事が忙しい時期には、当時の息の詰まるような感覚が戻ってくることもあるが、服薬せずとも自己コントロールで収まるので、感覚としては「古傷はあるが、ほぼ完治といっていい状態」である。

これは大変有難い話ではあるが、喉元過ぎればで、当時の記憶が既に遠く薄れつつあるのを感じる。
そこで、覚えているうちに、鬱病体験談として書き残しておこうと思う。
人には人の乳酸菌という言葉もあるし、人には人の鬱がある(腸内細菌はうつ病と深くかかわりがあるらしい)。こういう鬱もある、という一例としてお読みいただければ幸いである。

結構ハードめな職場

僕の職場は、いわゆる激務だった。そもそも忙しいので有名な業界ではあるが、僕の会社はその中でもさらに忙しく、僕の部署はさらにその会社の中で1,2を争うハードな部隊であった。
僕は元々は別の部署にいたのだが、現部署の一人が辞めるということで、僕に白羽の矢が立ち、異動となった。
異動後に知ったのだが、その辞める人は、うつ病による退職であった。鬱病の影響で昼間は動けないので、引き継ぎのやり取りは主に深夜の3時から6時に行っていた。その先輩以外にも、心を病んだり、体を壊したり、産業医からストップがかかったりで休職中・退職予定の人がちらほらいるようだった。
これも異動後に先輩から聞いた話だが、僕は社内で「体が強いし対人ストレスにも強い」と評価されており、それを見込んでの異動らしかった。
たしかに僕は体力があり、金曜日深夜に職場から空港へ直行し、週末弾丸海外旅行をして月曜の早朝に帰国してそのまま出社するなど、わりと無茶なスケジュールでも平気な方だった。
学生時代も4年間週2〜3日の夜勤アルバイトを続けつつ毎日2〜4時間激しい運動をして、単位もほとんど落とさなかったので、多少は忙しくても大丈夫だろうとたかをくくっていた。

異動した後の勤務時間は、月の残業がコンスタントに150時間を超えた。そもそも入社してから日付が変わる前に会社を出たことは月に1回あるかないかだったが、異動後は、週のうち2日は会社に泊まり、土日もどちらかは12時間以上は会社にいた。
一番忙しい月で、残業230時間ぐらいだったと思う。この月は家の水道をほぼ使用していなかったので、水道局の人が計器の不具合を疑ってわざわざ訪ねてきた思い出がある。

ただ、その状態でもつらいとは感じなかった。
仕事はほぼ個人作業かクライアント訪問であり、ノルマだけ達成していれば、定例ミーティング以外の時間は自分の好きなように使えた。
食事で中抜けしたり、打ち合わせがてらちょっと病院に行ったり、資料を探して外出したりもできたので、実際に仕事をしている時間はタイムカードの記録上よりも少ないはずである。

この部署に休職者が多い原因は激務ではなく、特定の上司にあるように感じた。いわゆるパワハラマンで、この人のデスクの近くの席の人は、上司のいる側の耳からだけ血を流したり、その側だけ脱毛症になったりしていた。
この上司から電話を受けた先輩が、口では冷静に受け答えしながら、もう片手で鉛筆をメキメシャとへし折っていたのを覚えている。
ただ、この上司の性格特性は僕の父親によく似ていたため、あしらい方はわかったし、ちょっと親近感さえ抱いていた。それが伝わったのか、パワハラ上司も僕に対してはそんなにきつく当たってこなかった。
それもあって、わりと楽しく仲良く仕事をしていた。

チームの消滅と引継ぎ

異動して半年後に先輩が一人辞め、その半年後にまた一人辞めた。
辞めた先輩の仕事は、そのまま僕が引き継ぐことになった。
僕の部署の仕事は専門性が高くなかなか人員が見つからないため、それまでは僕がやれというお達しであった。
3人分の案件がのしかかってきたので、前ほどは自由に中抜けできなくなったが、それでも深夜残業中に皇居ランしてみたり、まだ移転前だった築地市場へ海鮮丼を食べに行ったりと、そこそこ好きにしていた。

契機になったのは、その1年後、部内のチームが消滅したことである。
僕の部署は大きく2つのチームに分かれていたが、そのうち僕が所属していないほうが消滅した。チーム長がメンバーを引き連れて独立したのである。
この独立劇はわずか3か月の間に行われ、呆気に取られている間に、そのチームの案件がまるごと残された。
そして、その仕事を全て、僕が引き継ぐことになった。
消えたチームは5人いたので、ざっくりこれで8人の業務が降りかかってきたことになる。
さすがに上司に相談したが、とにかく目先の仕事は回さないといけない、僕以外にできる人がいない、人が見つかるまでは頼む、ということで、とりあえず頑張ることになった。

引継ぎ期間は1週間しか存在せず、その間に進行中のプロジェクトのあれこれ・マニュアル・取引先諸々を頭に叩き込まねばならず、通常業務と並行してこの引継ぎを行うのは大変だった。だけど、あまりの事態にアドレナリンが出ていたのか、お祭り前夜のような気分で、不思議としんどくなかった。

鬱の入り口

そんなこんなで、辞めた8人の仕事をこなす日々が続いた。
結局、補充人員は見つからなかった。何人か面接まで行ったらしいが、技量不足で不採用になったり、逆に待遇面でお断りされたりだったらしい。
だが、意外にも仕事は回っていた。
食事はデスクでカロリーメイトになり、朝から晩までデスクや現場に張り付いていたが、それはそうとして、仕事は終わらせていた。
この経験を最近友人に話した時、「なんで上司に仕事量を減らす相談をしなかったのか」と怒られたが、「仕事を減らす」という発想がなかった僕には目から鱗であった。
僕は、生まれてから与えられたタスクをこなせなかった経験がない。これは、生来の負けん気の強さに加えての父親のスパルタ教育の賜物で、「できるまでやる、できたらもっとやる」というのがスタンダード姿勢であった。加えて、昔から「つらい」「苦しい」「疲れる」という感覚がよくわからないため、現状別につらくもなく、仕事を減らす必要性を感じなかったのである。
なので、タスクを減らすという解決法が当時の僕には出てこず、「引き続き頑張る」というスパルタ解決法で、その生活を続けていた。

およそ1年経った頃、身体に異変が起きた。
常に風邪の引きはじめのように体が熱く、だるい。最初は長引く風邪かと思ったが、症状は良くも悪くもならず薬も効かなかった。調べたところ、自律神経失調症の可能性が高そうだったので、効くと言われている漢方を買って飲んでいた。漢方の効果は感じなかったので、1本3000円する栄養ドリンクを買って飲んだりしていた。効かなかった。
それでも職場のストレスチェックは低値であり、健康診断もオールAで元気に皆勤賞で働いていた。
プライベートでも土日のどちらかはジム+フットサルorボルダリングで4時間運動できるぐらいの体力はあった。

本格的な鬱

そして、数か月経ったころ、いきなり糸が切れたように頭が動かなくなった。非常に焦った。数行で終わるはずのメールの返事さえ、終わっていない他の作業ばかりが頭に浮かんで、全く進まなかった。メールボックスを開くのさえ、クリックひとつするのに比喩抜きで5分ほどかかっていた。
それに加えて、PCを立ち上げたり携帯に着信があると、動悸がするようになった。
困った僕は、試行錯誤の末、解決法を生み出した。
行動の固定化である。

自分の状態を観察した結果、思考に必要な能力が著しく阻害されていることがわかった。メールボックスを開くのに時間がかかるのも、溜まっている電話やスラックを優先すべきか、先にメールを返すべきか、現場作業を進めるべきかをなぜか判断できないのである。
しかし、条件反射的にこなせる作業(計算など)であれば、そこまでの労なくできることがわかった。
つまりは、「選択」と「決定」が難しい状態にある。
なので、自分の抱えているタスクを、固定の流れでこなすことに決めた。
「メールを返す」→「電話を返す」→「スラックを返す」→「現場に行く」→「メールを返す」……と、選択の余地なくこの順序で繰り返す。他から作業が降ってきたら、そっちを絶対に優先する。
ロボットのように、オートで強制的に仕事を進める方法である。
これが功を奏して、仕事が完全にストップしてしまうことはなかった。
しかし、打ち合わせや相談の電話など、エモーショナルな要素が絡む仕事はオートモードでは難しく、お酒の力を借りていた。
ウイスキーを少し飲むと、動悸が収まり、不思議と集中できて、話がよく耳に入って来た。
外見・性格上も業務成果上も特に変化はなかったようで、周りから飲酒を疑われることはなかった。
しかし、やはり仕事の能率は落ち、終わらない分を土日をフルに使って回収するようになった。
プライベートの時間は無いに等しかったが、家にいる間はほとんど寝ていた。寝ている間も会社の携帯が鳴る幻聴を聞いたり、〆切に遅れる悪夢を見て飛び起きたりしていた。
そんな状態になっても、自分が異常であるとはつゆとも思い浮かばなかった。この時点で、8人の仕事を引き継いでから2年近くが経過していた。


そうやって、酒の力を借りつつ仕事を続けていたのだが、ある日車に引かれかけた。夜中に横断歩道を渡っている途中、突然次にどうしたらいいかわからなくなって、横断歩道上で動けなくなった。
この頃は日常生活もほとんどオート状態で過ごしていたのだが、たしかこの日はいつも使っている道が工事で使えず、別の道を通ったところ、自分への指示がバグって動けなくなってしまったと記憶している。

轢かれかけた話を翌日同期に笑い話として話したところ、深刻な顔で心療内科を勧められ、そのままその場で予約を取ることになった。そして、予約した日に心療内科へ行き、現状のあれこれを話したところ、即日「抑うつ状態」の診断が下り、晴れて鬱病となったのである。


受診とカウンセリング

病院の予約は平日に取った。ちょうど案件の締め日近くで休みは取れず、ひっきりなしに連絡が来ていたので、待合室でもパソコンを開いて仕事をしていた。呼ばれて診察室に入った時も、小脇にパソコンと携帯を抱えていた。
医師から「パソコンを鞄にしまえますか」と言われたが、「連絡が来るので、可能であれば開いて持っていたいです」と答えた。
パソコンを離さない僕を見て、医師は「休職しましょう」と言った。
その後に自覚症状についての問診や、生育歴などを聞かれ、「抑うつ状態」という診断となった。
医師からは即時の休職を勧められたが、仕事の引継ぎで即時は難しいという話をして、3週間後になった。
休職の期間も、医師からは最低1年と言われたが、僕はそんなに重症とも感じなかったので、とりあえずフルで残っている有給を使用し、休職ではなく1カ月の休暇を取ることにした。
それでもなお医師の目から見て休息が必要であれば、ちゃんと長期間の休職をとることを約束した。
休暇までの間だけどうにか仕事をできるようにしてほしいと頼み、抗不安薬と睡眠薬を出してもらった。
処方された薬はトリンテリックス、ロラゼパム、トピナ、マイスリー、エビリファイだった。もうひとつぐらい出ていた気もするが、よく覚えていない。
医師に言われるまま、診断書と指示書を持って会社に行き、上司にその書類を渡した。
やり取りはよく覚えていないが、希望通りに3週間後に休暇に入ることになり、引き継ぎは可能な部分だけ行い、引き継げる人がいないプロジェクトは僕が戻り、必要な人員を確保できるまで凍結することになった。
すごく申し訳ない気持ちと、ほっとした気持ちが同時にわいて、複雑な気分になったことを覚えている。

休暇までの3週間は、業務の合間に毎週通院することになった。
2回目の通院でカウンセリングをすることになり、カウンセラーの女性と1時間ほどマンツーマンで話した。内容はよく覚えていないが、両親についての質問が多かった。
話しながら、この人は、僕の鬱には仕事以外の要因があり、それが僕の両親にあると推測しているんだなと考えていた。
やはり最後にそれに類することを言われ、プログラムを受けるよう勧められたが、断った。
僕の鬱は確かに幼少期に形成された性格要因が関わっているのかもしれないが、トリガーになったのは過重労働である。実際、これまでの人生では精神科のお世話になるようなことはなかった(中学生の時に強迫性障害は発症したが、受診することなくコントロールできている)。
であれば、労働環境を整えることで充分に再発は防げる。どこからが危険水域なのかも今回で理解できた。
何より、プログラムを受けるまでもなく、両親に精神医療上での問題があることはなんとなくわかっていた。
両親により育まれたであろう鬱病を生み出した歪みが、一方、僕が頼りにしている能力を生み出していることもわかっていた。
そして、僕は両親が好きだった。
その納得を、わざわざ客観的なメスで掘り起こす必要もない気がした。
そうして3回目の通院も終わり、僕は1ヶ月間の休暇に入った。

休暇と復職

休暇中は、京都に2週間ほど滞在し、残りは東京や温泉地をぶらぶらしていた。実家には年始に帰省したが、鬱のことも休暇のことも言っていないので、暦通りに東京へ戻った。
初診後すぐに飲み始めたトリンテリックスが非常に良く効き、休みに入った頃には心理的には既に落ち着いていた。
トリンテリックスを飲み始めて1週間経った頃に晴れた空を見て気持ちいいと思い、こういう気分になったのは久しぶりなことに気が付き、感慨深くもなった。
休暇中には登山やフットサルも楽しめるぐらい元気になり、復職間近の頃には少し憂鬱にもなったが、薬のおかげかそんなに気分の変動はなかった。むしろ、ブランクがないうちに早く復帰したい焦りの方があったと思う。
心療内科でも、定期通院を続けるならば復職しても大丈夫でしょうとのお墨付きをもらい、僕は会社へ戻った。
この休暇は表向きは有休消化の扱いになっていたので、僕は会社では「1ヶ月休んだ奴」という扱いになっており、休職歴もない。
復帰後はそこはかとなくみんなが優しい気がした。業務量もプロジェクト凍結のおかげで格段に減っており、加えて産業医の指示により残業は月に40時間までになったため、暇になった。
安定したということで薬は徐々に減らし、半年経つ頃に服薬終了となり、やがて残業時間も元に戻ったが、冒頭に書いた通り再発せず今に至る。

振り返り

当時を思い返しながら、うつ病の症状チェックリストを試してみた。

〇精神的症状
気分が沈み、憂うつ:×
自分を必要以上に責めてしまう:×
自分が役に立たない存在に思える:×
集中力の低下:〇
やる気、関心、興味の低下:△
物事をネガティブな方へと考えてしまう:×
ふと死にたい、消えてなくなりたいと考える:×

〇身体的症状
不眠:×
食欲不振:×
動悸:〇
吐き気:×
下痢:×
体重減少:×
動作緩慢、あらゆる動作が遅くなる:△(思考スピードのみ)
性欲減退、ED:×

これを見ても、主症状は動悸・精神運動の緩慢・集中力の低下のみ、その症状もトリンテリックスの一か月服用でほぼ消えたことをあわせると、僕の鬱病はごく軽度だったはずだ。
くわえて、車に轢かれかけたことが功を奏して早期受診に繋がり、適切な服薬と休職で、非常に早く寛解までもっていけた。
非常にラッキーなケースだったと思う。

上のチェックリストでは興味関心の低下に△をつけたが、仕事の資料集めや勉強は最後まで熱心にやっていた。ただ、続けていた運動習慣はいつの間にか途絶えていたので、明らかに趣味への意欲は低下していたと思う。
仕事の意欲は保たれるがプライベートへの関心は低下する状態に激務が掛け合わさると、なかなか自分の変化に気付かないのではないか。

自覚が難しい精神症状に対して、続く微熱や慢性疲労は自覚しやすい。これは、鬱病ではよくある症状らしい。もし、慢性的な微熱や疲労感が続いていたら、心療内科を受診してみることをおすすめする。

ちなみに、僕が再発防止のために続けているルーティンは以下である。

・アリナミンAの服用
・エビオス錠の服用
・1日合計30分の筋トレ

僕の場合、仕事以外への興味関心の低下が症状として大きかったので、この日課を億劫に思うようになると危険水域に近づいているサインとしている。

鬱に完治はなく寛解だけだ、という言葉もあるように、一度鬱になった人間は一生再発のリスクを抱える。しかし、そのリスクは工夫次第で下げることができる。
今の僕にとっては喘息の再発リスクの方が高くひやひやしているが、鬱の方も時々は思い出して構ってやらないと暴発するかもな、と、拗ねた子供のように鬱病を思い返す日々である。


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