『硝子のボレット』評 金尾釘男

未来短歌会の星、かつ、ぺんぎんぱんつの星である金尾釘男さんが『硝子のボレット』に評を寄せてくださいました。ボレットの変遷を、どうぞ。

 「ほぼ編年体」の歌集なので、頭から読んで歌の変化を軽く探って行きたい。まずは素材に注目してみる。

連れられて渚に行けばお互いの裸足はじめて見るのでしたね

足の指ゆっくりひらく今はただしあわせだってつぶやきながら

くるぶしは男の肩に載せるためこんなかたちになったのですね

 他人との関係を描くときに手がかりとして採用される足、足、足。裸の足が親密さのシンボルとなる。一首目、「連れられた」わたしは裸足を見ることを通して段階の異なる世界へ移行する。二首目では自ら相手の足を弄ぶことでまた別の、陰のある関係をほのめかす。三首目の相手は個人を超えて「男」という属性に対してわたしの足「くるぶし」がコミュニケーションの武器になる。足の喩的変化を通して人間関係が描かれている。

扇風機からから回る梅雨明けの第二診察室へお入り下さい

昨日あなたに梳かれた髪にふれたがる子どものためにかがむ花冷え

 次に描かれるのは職業。主観ではなく描写によって職場を示す一首目。「扇風機」から「梅雨明け」の外部に視線を誘導し「診察室」に目を戻すと主体がいつのまにかそこにいる仕掛け。まさに読者に紹介している感じ。二首目は自分を中継して「あなた」と「子ども」がつながる不思議を描く。職業を描くときの作者は主体と読者の中間に存在している。歌に社会性が現れる。

きみがまだあの角部屋に一人いることも分かった手紙のにおい

体力をほしがるようなひとだから何を交えて遊びましょうか

生きていてよかったねって清潔な朝の呼吸を受け入れるしかない

 作者の目を通して見る「きみ」は遥か遠いひとのように感じる。今はもう確かめることのできない場所にいる。体力がなく今にも消えてしまいそうである。生死を彷徨する夜を過ごす。これら三首に登場する人物は同じなのか違うのか文脈で判断するしかないが、どちらにしろ似た印象で描かれている。これが作者の、人物に掛けるポエジーなのだと考えられる。

 だんだんと歌い方を重視し始める。

透きとおる部屋、透きとおるわたしたち眠れる眠れないどちらかが

そんな軽いかばんひとつで会いに来てわたしを入れますか入れませんか

 ポエジーの捜索が定型に及び破調の歌が生まれる。下の句の破調は音数が増えており、選択を迫る内容と合わせてあるようだ。問われる内容も、ファンタジーである。

こおり水、水たまり、まりあ、アルジャーノン 言葉をぬぐい合うようなキス

スカートの奥の夕陽を裏返すような行為をうまくできない

 こちらでは語彙および語彙の接続に工夫が見られる。一首目の、しりとりに始まり、その言い方がキスの比喩を導き出すさまはおもしろい。二首目では視覚化を拒むような言葉のつらなりが助詞によって最初から最後まで接続されている。その力技によって不思議な読後感が生まれている。

バスタブはそういうことをする場所じゃない 夜を飛ぶ鳥を見ていた

あけたてのピアスホールは苺色 言葉を選ばないひとはきらい

 これまでは一首で言い切るかたちが多かったが、切れとともに詩的な表現が増える。一首目の「そういうこと」二首目のシチュエーションと、思わせぶりなレトリックが使われている。

 後半は感情を直截表現しようといるように見える。

正しさの効能なんてわからないわたしはふつうのセックスをしたい

男のひとは体のどこにきしきしと女のひとを入れるのですか

 私性の強い表現。人物、場所を描くのではなく、読者に直接語り掛けるスタイル。作者のなかの「正しさ」と「ふつう」「男」と「女」の関係に対する錯誤がポエジーを生み出している。

ずっととけない氷がほしい あなたとはほんとうに家族になりたかったんだよ

わたしの手が川に流れているような気がして、つないでてよ手、つないでてよ

 これらの破調は以前のものとは違い自由詩に近づいている印象を受ける。下の句の、より会話に近い口語体によって上の句の「氷」「手」が精彩を帯びる。

 全体を通して歌に込められた感情は強く、それを表現するために作者が試行錯誤しているさまが伺える。印象にすぎないが、自由詩に近づいて行くさまも見える。表現したい内容が器を求めてさまよっているようでもある。 旧来の短歌的抒情に留まらないメッセージ性が一定のポピュラリティを獲得していると考えられる。

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