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わたしたちに与えられた時間

 人と関わって生きていく以上、傷つくことも、傷つけることも避けられない。
 「あなたは美人だからいいよね」と友人に何げなく言ってしまったとき、相手が顔を伏せる前に「しまった」と思った。まるで「美人は得だ。頑張らなくても認められる」と揶揄でもしているようじゃないか。「美人」は褒め言葉だからとか、悪気はなかったとかは通じない。相手を容姿でジャッジするなんて、恥ずかしいし本当に申し訳ない。その場はすぐに謝罪した。
 ひどいことを言ってしまったとき、相手の困った顔などにすぐに気付けばその場で謝ることができる。でも、時間がたってからあの発言はよくなかったと気付いた場合には、「いまさら持ち出しても向こうも困るのではないか」「謝罪は自己満足なんじゃないか」という考えに甘えそうになって自分でも戸惑う。言ってしまったことが消えるわけじゃないから、逃げたって仕方ないのに。
 人生において、自分が傷つくことは避けられない。どんなに心のバリアを強くしたって、信頼できる家族や友人からだって思いがけないことを言われることはある。言った方は大したことがないと思って忘れてしまったとしても、言われた方はその後何年も傷を引きずってしまうこともある。
 同じように自分が誰かを傷つけることも避けられない。わたしが自分の受けた傷を忘れられないのと同じように、わたしが傷つけた人もその傷の痛みを忘れない。だったらわたしは、きちんと謝りたい。傷つけたことを忘れたくない。
 
 生きている間しか逢えないなどと傘でもひらくように言わないでほしい
                  大森静佳「てのひらを燃やす」

 わたしたちに与えられた時間は有限だ。あなたとも、「生きている間しか逢えない」。生きている間しか、話せない。傷つけあうことも、許しあうことも、癒やしあうことも―。「傘でもひらくように」ぽんと提示されたその事実は、疑いようのない真実だからこそ、わたしたちの関係に価値をもたらす。
 傷つくことも、傷つけることも避けられない。でも、生きている限り、やり直すことはできる。限りがあるから、ちゃんとやり直す。今日もそう思って生きている。

「徳島新聞」2019年3月17日朝刊に掲載

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